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◆◆ TEXT ◆◆

◆ 2026/01/27
    定例更新:
    
    	年始の更新 in 2026
    	
        暦というものは地球人が勝手に決めているフィクションなのであり
        律儀に従う必要はないのですが、
        年末年始の独特の雰囲気というものは嫌いではありません。
        過去を振り返り、未来への展望を書き記しておきたくなる。
        なんやかんやと私も集合意識の影響を受けているということでもあるのかもしれません。
        
        というわけですでに1月の終盤になっており年始というにはやや無理がある時期ではありますが、
        ここらで一念発起して更新しておかないと、おかないと…?
        更新しないとどうだというのでしょう?
        人類が滅ぶのかな? それは良いですね。じゃあ更新しない方がいいのかも。
        と言いつつこうして更新してしまう私の罪をお許しください。
        
        以下、分野別に去年までの振り返りと今後の抱負のようなものを書いていきます。
        
        
        ■ ゲ制のこと
        
        いろいろ思うところはあるんですが、いろいろ思うところがありすぎて言葉になりません。
        というか、ゲ制に関する「思うこと」がこのページを更新しておきたいと思った直接の理由なのですが、
        と同時に今の今まで更新を先延ばしにしてしまった最大の理由でもあります。
        
        アレを言っておかなきゃ、コレも言っておかなきゃ、
        いやしかしアレを言ったらちょっとアレだし、コレを言うのもちょっとどうなんだ???
        
        という感じでいくら時間をかけても言葉になりません。
        なので今回は「いろいろ思うところはあるけど言葉になりませんでした」
        という記述をもってゲ制に関する日誌といたします。
        
        
        ■ YouTube活動のこと
        
        歴史おもしろいですね!
        何を思ったか始めてしまった歴史チャンネルでしたが、すっかり歴史のおもしろさに目覚めてしまいましたよ。
        
        動画を作るために調べる。何となく知ってるつもりだったことが明確になっていく。
        今までだったら敢えて調べようとは思わなかった分野のことも、動画のネタになるかもという理由で調べてみる。
        雲をつかむようなイメージしかなかったことが形のある知識になっていく。
        
        なるほど、そういうことやったんか!
        へ〜、そんなのがあったんか!
        
        知りたいこと調べたいことがどんどん増えていく。
        人類の歴史は有限のはずなのにネタは無限にあるように思える。不思議ですね。
        
        この面白さを視聴者のみなさまにもお伝えしたい。
        というわけで自分なりに調べながらというフェイズも必要な活動であり、
        更新のペースはあんまり早くはないですが今後とも続けていきますよ〜。
        
        チャンネルの数字的なことに関して言えば、現状で満足しているかという問いにYesとは答えにくいですが、
        こればかりはアルゴリズム陛下の御意のままにですからね。
        高評価はわりと押してもらえてるので、実際にご視聴くださってる方々には「届いている」…と思いたいですね。
        
        多分ですが、もしも今のチャンネルが初めてのYouTubeチャンネルだったとしたら、
        モチベーションを失って心が折れていた可能性が高い気がします。
        しかし何やかんやと3つ目ですからね。
        数字的な面に関しては免疫がついていると言ったらいいのか、「大体こんなもんだ」という感覚がある。
        
        とは言え、もしも何本投稿しても再生数1ケタどまりとかだったら流石に意欲を失う予感はしますが、
        そこまで絶望的ではないですからね。
        少なくともこのページよりは明らかにアクセス数が多い。
        昔の個人ホムペの時代に比べれば天国です。
        
        > 少なくともこのページよりは明らかにアクセス数が多い。
        
        はい、つまりそういうことなんですよね結局。
        YouTubeという場の力。あなどり難し。
        
        > こればかりはアルゴリズム陛下の御意のままにですからね。
        
        法則があると言われつつも不規則で、ときに理不尽だとも言われるYouTubeのアルゴリズム。
        たとえばエンゲージ率が高ければインプレッションを増やしてもらえるという通説がありますが、
        あきらかに各種エンゲージの数字がよくなってるのに、ある日ぷつんとインプレッションを止められたり、
        その逆に全然エンゲージ率が上がらないのに何やかんやとインプレッションが続くこともある。
        そもそもインプレッションを出してもらわないと投稿者側はどうにもならない。
        あきらかに関連のないところにばかり「関連表示」されて、それでエンゲージが低いと言われても困るんだよなぁと思うことも。
        
        しかしこの「理不尽さ」こそがYouTubeをプラットフォームとして健全に保っている秘訣なのだろうとも思う。
        どういうことか?
        もしアルゴリズムに完全な規則性があったら、
        誰もがそれを狙って「裏技」で視聴回数を稼ぐような質の低い動画があふれることになると予想できる。
        そうなればYouTubeを観る人も減り、プラットフォームが崩壊する。
        ところが「理不尽さ」のおかげで、投稿者が「穴を狙う」行為は大体「外れる」ことになる。
        つまり「こうすれば絶対に伸びる」という「数字を伸ばすためだけの裏技」が成立しない。
        
        では完全にランダムなのかと言えばそんなことはなく、
        大枠で見れば基本的には「視聴者に受ける動画を作り続けていればそれなりには報われる」ようになってるっぽい。
        
        だから個別の動画に目を向けると
        「なんでこれが伸びないの?」とか「なんでこんなのが伸びてるの?」みたいなことはよくあるわけですが、
        そういう短期的なブレがあることによって、長期的な安定が現象として実現されている、のではないか。
        わかりませんけどね。
        
        だからアルゴリズム側には(おそらく意図的な?)「ブレ」がある一方、
        動画を作る側は逆に、ブレずに方針を保って作り続けるのが肝要なのだと思う。
        アルゴリズムの「ブレ」に一喜一憂して「この前はアレが伸びたからまたああいうのをやろう」
        などとやりはじめるとチャンネルが迷走し、ロクなことにならないようです(他のチャンネルをいくつも観測した結果)。
        
        で、結局これまたよく言われていることですが、
        あくまでも「視聴者に価値を届ける(観てよかったと思ってもらえる)」のが重要ということになる。
        単なる精神論ではなく、「アルゴリズムにブレがある」ことによって、
        そういう一定の「健全さ」が出現しているわけです。多分。
        
        などというのも私の推測に過ぎませんが、
        そうだとすればなかなかうまく出来た仕組みだと思います。
        
        正直「もうちょっとインプレッションくれてもいいじゃーん」などと思うことはありますが、
        そもそもアルゴリズムという仕組みがあるだけでも有難いですよね。
        たとえば今書いてるこのページにはそんなものはない。
        挙動に理不尽なところがあるとしても
        プラットフォーム側に「自動宣伝マシーン」があって常時動いてくれてるのは有難い話です。
        気まぐれな営業マンが巡回してくれてる、ぐらいに考えて、
        粛々と動画制作に注力するのが多分最善手であり「悪くない話」と言えるんじゃないかと思う。
        
        
        
        ■ サイケ活動のこと
        
        記事にはしてませんでしたが、たまにやってました。半年に一回ぐらい。
        もっぱらDXMのみで、いろいろな薬物に手を出して冒険するといったことはしてませんでしたけどね。
        おっと、もはや物質名を隠さないのか。
        
        で、そのDXMですが、なんとなく「幻覚」の正体らしきものが分かってきた気がします。
        まず物質の作用ですが、一般的に主作用とされるのがNMDA阻害。
        しかしそれだけではなくドーパミン系の活性作用もあるらしい。
        この相乗効果の結果、CEV(閉眼幻覚)が生じるのではないか、と思われる。
        
        どういうことか?
        
        ドーパミンといえば一般的には「快楽物質」として知られていますが、
        それはあまり正確ではなく、むしろ「意味づけ物質」ということらしい。
        体験したことに対して「この体験には意味がある」という感覚をもたらす。
        
        よくゲームに「ハマる」ことを指して「ドーパミン中毒」と言うじゃないですか。
        ドーパミンそのものが「快楽」なのではなく、
        「これは意味があることだ」→「もっとやろう」という意欲になり、ハマる。
        だから快楽とは必ずしもイコールにならない。
        だから「別に面白いわけじゃないのにヤメられない」という現象も起きがちになる。
        
        統合失調症の原因についても「ドーパミン説」というのがありますね。
        つまりドーパミンが「病的に」作用している結果「妄想」が生じるのではないか、という説。
        
        ではDXMの場合はどうなのか。
        主作用はNMDA阻害、略さずに言うとN-メチルD-アスパラギン酸型グルタミン酸受容体のアンタゴニスト。
        
        このグルタミン酸受容体というのは脳内に広く分布しており……
        具体的にどういう機能を果たしているのかというのはちょっと私の知識では説明しきれないんですが、
        ざっくり言えば「意識の基本的な回線の一種」のようなものであり、
        つまり、これを阻害されると脳の「配線がぐだぐだ」になる。
        DXMを大量摂取すると麻酔がかかったようになって身動きができなくなるのはその結果ですね。
        このとき身体だけでなく脳内でも普段とは異なる「信号の乱れ」が発生している。
        
        この「乱れ」を脳はどう解釈すればいいか分からない。
        そこへ活性化されたドーパミンによって「なんやかんや」と意味づけが行われる。
        それで例えば、「まぶたの裏側の光の点滅」が「見知らぬ街の景色」として解釈されたりする。
        
        ……ということなのではないか。
        
        まとめると、
        ・NMDA阻害:脳内を混乱させる
        ・ドーパミン:「混乱」を「意味づけ」して「幻覚」を生む
        
        あんまり厳密な説明になってませんが、大筋のところでは当たらずとも遠からずなのではないでしょうか。
        
        
        で、本題はここから。
        
        見えている「幻覚」の正体がそのようなものなのだとすれば、
        「幻覚」はどこまで行っても「幻覚」ということになる。
        
        私以外の人たちも共通して言ってることですが、
        回数を重ねるにつれて鮮やかな「幻覚」は見えにくくなってるなという体感はある。
        それは多分、脳がグルタミン酸系の阻害による「乱れ」に慣れてきて、
        わざわざそれを「見知らぬ街の景色」のように解釈する必要がなくなってきたということなのではないか。
        
        これを指して「耐性がついた」という言い方をされるわけですが、
        脳自体が「乱れ」を「単なる乱れ」として直視できるようになった=学習したということであり、
        であるならば「幻覚を見るために量を増やす」ということをしてもあまり意味がない。
        「幻覚」にも一定の使い道はあると思いますが、
        その方向ならシラフでスクライングのトレーニングをした方が多分いい。
        (※スクライング:水晶玉占いの技術)
        
        言い方を変えると、「耐性がつく」というよりは「現実を認識するのが上手くなる」ということです。
        
        じゃあDXMを使うのは意味がないのかと言えばそうではない。むしろ逆です。
        NMDA阻害の作用として物理感覚・時間感覚の喪失がある。
        これこそがDXMが「解離系」のサイケだと言われるゆえんですね。
        この効果自体はグルタミン酸系の神経系が阻害されたことによる「事実」であり幻覚ではない。
        つまり幻覚が退いたことにより、本来の効果に向き合えるようになったということです。
        
        さきほど「現実を認識するのが上手くなる」という表現を使いましたが、
        「現実」という言葉は使い方が難しいですね。
        我々は日常的に物理的な時空世界こそが「現実」だと思っているわけですが、
        それこそが脳が作り出した「幻覚」とも言える。
        
        本来は「何も無い」、あるいはすべてが「ただ有る」。
        そこに三次元の空間や過去から未来への時間という「天地開闢」を行って秩序を設定し、
        その上に森羅万象や世間のゴタゴタという「現実」を作り出している。
        その意味で「現実」は「虚構」です。
        
        NMDA阻害により日常の「現実感覚」が喪失した結果、
        当初はその穴埋めとしてドーパミンによる「別種の現実=幻覚」が構築されていた。
        それが存在感を失うことで、本来の実相(?)に向き合えるようになった。
        
        ナワリズム風に言うならば、
        ・日常の脳が作り出す幻覚(現実)=第一の注意力
        ・非日常の脳が作り出す幻覚=第二の注意力
        ・その両方を越えた世界=第三の注意力
        と言ったところでしょうか。

        ロバート・モンロー風に言うならばそれぞれ
        フォーカス1、フォーカス10〜26(27?)、フォーカス30以降と言ったところでしょうか。
        
        そもそもDXMに寄せていた期待はこの世的な「現実」を超えた世界を知覚したいというところにあったのでした。
        ここに書いた記事で言うとDXM編(?)の3回目のやつのときですね。
        ヨーガ系の瞑想の境地で言うところのニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)の状態を、
        NMDA阻害の作用で(擬似的に)垣間見ることができるのではないかと思ったわけです。
        
        というわけで特に記事にはしてませんでしたが、前回DXMをやったとき、
        敢えて「幻覚」には意識を向けず、むしろ逆に幻覚が見えそうになっても否定するように意識を使って、
        「解離」の方向へとフォーカスを向けるよう心がけてみました。
        
        するとどうだったか?
        
        真っ白。何も無い。
        何も無いから言葉に残すこともできない。記憶にも残らない。
        だから記事にもできない。
        
        これには参りましたね。
        
        やはりというか、何らかの「幻覚」=「理解できる解釈」の手がかりがあってこそ、
        そこを起点に記憶を形成し、意味のある物語を紡ぐことができる。
        それが「無い」となると、もう文字通り、何も「無い」わけです。ミもフタも「無い」。
        
        以前の記事にて、頻繁に無分別三昧に入っていたというラーマクリシュナさんが、
        その境地についてほとんど言語化してくれてないことに不満を述べておりましたが、
        確かに言語化できないんですよね。困った。
        
        敢えてたとえて言うなら、何の手がかりもないツルツルの壁を登ろうとするような不可能さ。
        
        たしかにそれが定義そのものであり、体験としてそれを目の当たりにすれば当然そうなるということですね。
        
        とは言え「これが真実なのである!」と言って満足する気にもなれない。
        どうにかならないものか。
        
        ただ、「何も無い」と言っても、
        それを「無い」と認識している「私」、「どうにか言葉にできないか」と思っている「私」はまだ「有る」んですよね。
        
        あるいはその「私」さえも「幻想」として解体していく必要があるのか、
        それともそのギリギリの「私」を、周囲の「現実=幻想」を剥ぎ取った上で、純粋なまま保ち、
        その上で「無」に向き合うことの方向に何らかの地平が「有る(?)」のか?
        
        ナワリズム的に言うと、完全に自己を解体してナワールに同化してしまうのは「イーグルに食われる」ことであり、
        それを修行によって回避し、自己を保ったままナワールの海を自由に泳げるようになることが
        戦士=呪術師の到達点「第三の注意力」なのではなかったでしょうか?
        
        ラーマクリシュナさんがそうだと言うわけではありませんが、
        「世界の真実は "無" なんだぜ〜」などと言って「知った風な顔」をして満足するなどというのは、
        それこそ「魔境」とか「野狐禅」とかいうものなのではないか?
        
        それらの警句は「幻覚」に陶酔して「何かを悟った気分」になることを指して使われることが多いようですが、
        「幻覚」を打破した先の「無」に対する向き合い方の中にも同じような落とし穴はあるように思う。
        
        
        というわけで最近はYouTubeで忙しいのでサイケ活動にはあんまり手を出せずにいますが、
        ちょっと今までとは違う方向性が見えてきたとは言えるかな? というところではあります。
        なかなか手強いステージですが、折を見てまた探求していきたいですね。
        
        
        
        ■ 自殺とか反出生主義とかのこと

        この件もゲ制と同様、ここを更新しなければと思う理由であると同時に、
        うまく言葉としてまとめることができずに更新が長引いた要因でもあります。
        
        私自身の考えは折に触れてここに書いてたような気がするので繰り返すのは控えます(ん?書いてませんでしたっけ?)。
        以前のYouTubeの方でも語るべきことは語りきったかなと思いますし、
        追加でご興味のある方はマ○ンドルをご参照くださいという感じです。
        
        気になっていたのは旧Twitterを通してご縁があった方々のこと。
        以前のYouTubeチャンネルの更新を終えて以来、Twitterの以前のアカウントからも遠ざかっておりました。
        で、年末年始ということで振り返りの日誌を書くなら一度見ておこうかということで
        久々にログインしてみました。
        
        TLが閑散としてましたね。
        検索すれば今でもその手の話題の投稿は多いようですので「界隈」自体はあるのでしょう。
        私がフォローしていた人たちという範囲で、活動を停止しているアカウントが多かったということですね。
        つまり入れ替わりが激しい。
        実際、私が現役でアカウントを動かしていた頃から入れ替わりは激しかったですし、
        アカウントを動かさなくなれば新たにFFに入ってくる人がいなくなり、TLは過疎化していくというわけです。
        それでも残っている人もいた。
        
        
        ・反出生系
                
        一時期はアカウント名に「反出生」というワードを入れたアカウントがいくつもありましたが、
        私のFFの範囲ではですが、そうしたアカウントは軒並み活動を停止してましたね。
        おそらく反出生主義そのものが一時期のようなブームは過ぎ去り、沈静化しているのでしょう。
        それと平行するように、一時的に反出生の「思想」を知って感銘を受けて勢いでアカウントを作った人の多くも、
        次第に熱が冷めていった、ということなのではないか。
        反出生主義そのものを中心テーマとしていたアカウントで、
        私のFF内で今でも発言を続けている人は見当たりませんでしたね。
        
        一方、反出生主義「にも」意見を言いつつ、多方面に思索を展開しているアカウントの場合は、
        今でも動いている方がおられました。
        
        
        ・希死念慮系
        
        ひたすらネガティブ発言を続けていたアカウントの多くは動きが止まってましたね。
        心境が変化してアカウントを変えたか、Twitter自体から離れたか、
        あるいは本当に肉体をお脱ぎになられた人も中にはいるのかもしれません。
        (私もアカウントを放置してた口なのでそんなふうに思われてるかも)
        
        一方、自虐ネタというのか、
        いいねを大量に押されるような「ウケる」発言をしてファンを大勢抱えている系統のアカウントは
        相変わらずと言っては失礼かもしれませんが、ブレずに発言を継続している人が多い印象でしたね。
        
        
        ・安楽死系
        
        安楽死の合法化を求めて言論活動をしているアカウントは結構残ってましたね。
        これまた相変わらずと言っては失礼ですが、根強く発言を続けておられる印象。
        
        
        ・社会問題系
        
        上記のような系統のテーマ群に親和性を示しつつ、ニュースを追いかけて意見を語る系のアカウントも、
        わりと以前と同様に動いているアカウントが多い印象でしたね。
        
        
        こういうと言い方は悪いかもしれませんが、
        「社会」のような自分の外側に「敵」を見出して戦っている間は「生きていられる」ということなのかもしれません。
        良し悪しは別として、それが「生きる」ということと深く結びついた一側面ではありましょう。
        あるいは「希望を捨てない」ということの一形態とも言えるのかもしれません。
        
        
        
        総じて言えば、当然ですが、
        「その場にいる」人もいれば「いなくなった」人もいた。
        
        ゲ制界隈の方でもそうですが、
        アカウントの動きが止まっているのを見ると寂しい感じがしてしまうものですが、
        私自身がそうであるように、活動の軸足を別のところに移したということなのかもしれません。
        
        え?私は「活動の軸足を別のところに移し」てるの?
        事実としてそうですよね。確かに。はい。
        
        いや何と申しますか、そこのところもね、こうして日誌を書くにあたり、曰く言い難いところと申しますか、
        別に「以前」を否定するつもりはないのですよ。
        私自身が根本的に別人になってしまったとも思わない。
        今もそこにいる人たちを「相変わらず同じことやってるな〜」などと「見下す」ような言い方もしたくはない。
        事実として「距離感」が見えるわけですが、それを価値中立的にどう言えばいいのか?
        言葉にしにくかったというのはそういう理由でもあります。
        
        
        しかし何かを言葉にするというのは本来は「無」あるいは「混沌」であるところに
        恣意的に秩序や意味づけを刻むということであり、
        「言葉にできない」ということの方が真実に近いことなのかもしれない。
        あるいは逆から言えば、言葉なんてその程度のものなのだから、
        完璧な表現はそもそも不可能なのであり、あまり重く考える必要もないのかもしれない。
        
        とは言え、言葉にしたことで誰かが嫌な思いをしているのだとすれば、
        「本来はどうせ "無" なんだから〜」などと言いたくもないですね。
        
        「うまい言い方」などというものがないのだとすれば、
        ひょっとすると何も書かないのが最善だったのかも?
        一年に一回ぐらいはここを更新しないと人類が滅ぶかも!と思って迂闊にも更新することにしてしまったわけですが、
        私としたことが物質世界に執着してせっかく人類が滅ぶチャンスを潰してしまったのかもしれません。
        
        存在しないのが最善なのだとしても存在してしまっている。
        何も書かないのが最善なのかもしれないのに何かを書いてしまった。
        
        「言葉にする」ことが「無分別の宇宙」に意味を刻むことなのだとすれば、
        それは1つの選択であり、相応の覚悟が求められることなのかもしれません。
        生きることは間違いを覚悟することなのでした。
        
        はい。
        
        というわけで、ここにこれを書くのは久々ですが、
        今日もあなたが幸せでありますように。