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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        見出すものとしての他人。
        
        「他人」が本当に、ある(いる)のか、どうか?
        そのように問うことを、やめてみる。
        
        問いの立て方を変えてみる。
        
        私はあなたを見出しているかどうか?
        
        あなたが実際にそこにいるかどうか。それはもう、重要なことではない。
        写真でもいい。写真すらなくていい。あなたがフィクションでもいい。
        なぜなら、私が、あなたを見出す(見つける)のだから。
        あなたが、どんな人なのかを考え続けながら。
        日々、問いを止めない。
        こんなとき、あなたならどう思うだろう? どう言うだろう? 
        どう感じ、どう判断し、どう振舞うか?
        問いを止めない。決してごまかさない。
        私は、あなたを知っているだろうか?
        
        このような取り組みが続いているとき、その現場で、
        あなた、は、そこに、いる、と、言い切っていいのではないか?
        
        
        仏作って、魂入れる。
        私は、仏に魂を入れている? 本当に?
        この像を拝む人々を。毎日、どんな思いで、この像に向かって手を合わせるのだろう?
        形だけ作って、あの人たちを騙しているのではないか?
        
        他人の姿(実在)は、そこに、人、を見出す契機にはなる。
        あくまでも、契機。
        私は、この人を、知っているか?
        この問いかけが、不断になされる限り、実在すら、不要。
        この問いかけがなされないならば、心は無視されている。人は見出されていない。
        
        
        人が実在していて、(だからこそ)  不断の問いかけが、行われている。
        人が実在していて、(にも関わらず)不断の問いかけが、行われている。
    
        人が実在していて、(だからこそ)  不断の問いかけが、行われていない。
        人が実在していて、(にも関わらず)不断の問いかけが、行われていない。
        
        人が実在しておらず、(だからこそ)  不断の問いかけが、行われている。
        人が実在しておらず、(にも関わらず)不断の問いかけが、行われている。
        
        人が実在しておらず、(だからこそ)  不断の問いかけが、行われていない。
        人が実在しておらず、(にも関わらず)不断の問いかけが、行われていない。
        
        
        
        重要なのは、不断の問いかけが行われているかどうか、であり、
        実在すら、本質的ではない。