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◆◆ したこと: ◆◆

        マインドル本文・2ndヒロ子氏のパート・第12話の途中。
        
        今日も2シーン進みました。
        進めましたとは言いません。理由は……私の大ファンのあなたには、わかりますよね?
        好きです。あなたが好きです。
        
        さて、淡々と進んでいるようですが、調子はどうですか?
        どうでしょう。
        数日前までのような、意識だけがあって何もできないような重篤な感じでは、なくなってきています。
        あとは、時間さえ流れなければ言うことなしです。
        そうなのですよね。
        時間さえ流れなければ、何の憂いもない。
        どうして時間などというものがあるのでしょう?
        
        時間が流れるということは、
        つまり、自分以外のものが存在している、と言い換えることができるでしょうか。
        マンガなどであるような、いわゆる「時間が止まった状態」というのは、
        自分だけが動いていて、他の人たちや天体の運行は全て停止している状態、ですよね。
        
        では先ほどの問いは、次のように言い換えることができますね。
        どうして自分以外のものが存在しているのでしょう?
        
        この問いは、自分と自分以外のものの境界がどこにあるか? という問いに還元することができるでしょうか。
        「自分以外のもの」を問うには「自分」と「それ以外のもの」の境界をなんらかの仕方で設定する必要がありますよね。
        
        何が自分で、何が自分ではない、のか?
        自分とそれ以外のものの区別、とは、つまり何を区別しているのか?
        
        自分とは、思い通りになるもの、のことでしょうか。
        では自分以外のものとは、思い通りにならないもの、のこと、ということになりますね。
        その前に、「思い通りになる」というときの「思い」とは何でしょう?
        それはもちろん「自分の思い」ですよね。
        
        「思い」とは何か?
        たとえば何か心に思い浮かんだイメージなり願望があったとする。
        それが「思い」ですよね。
        その思いが「自分の思い」である、とは、どういうことか?
        
        「心に思い浮かんだ思い」として、対象化している時点で、それはすでに「自分以外のもの」になっているのではないか?
        心に何らかの思いが思い浮かんだ、それは自分の「思い」かもしれない。
        だけど、その思いが思い浮かんだのは、自分の思い通りのことなのか?
        
        自分の思いだと思っている、その「思い」それ自体が、自分の思い通りにはなっていない。
        では、自分の思い通りになるものは、存在しないということになるでしょうか。
        
        さきほど、自分とそれ以外のものを区別する基準として、思い通りになるかどうか、ということを言いました。
        その基準で言うと、何もかも「自分以外のもの」ということになってしまいますね。
        
        自分と自分以外のものの境界がどこにあるか?
        すべては自分以外のものだった。
        では「どうして自分以外のものが存在しているのでしょう?」という問いには、どう答えればいいでしょう?
        
        この問いを発した時点では、さらに別の前提があったようです。
        自分と自分以外のものが両方存在している、という前提。
        その上で、後者が存在することの理由を問うていたのでした。
        ところが、自分は存在していないのでした。全ては自分以外。
        問いの前提が崩れた。
        では、この問いはどこへ行くのでしょう?
        
        崩された前提についてもう一度。
        どうしてそんなふうに前提していたのでしたっけ?
        時間が流れるのはどうしてか? という話だったのでした。
        時間が流れていると感じる。
        自分がいて、自分以外のものを見ている。
        自分の立ち位置から自分以外のものを見て、ああ、時間が流れたのだな、と知る。
        そういう仕方で認識を行っている。そこで「時間が流れる」という認識が成立する。
        この認識をしているのは自分。
        自分から、自分以外のものを見て、自分の側に、「時間が流れた」という認識が発生する。
        何を「自分」と呼んでいるか?
        その認識が発生した、その場所を「自分」と呼んでいる。
        そこで、さきほどの結論に立ち返ってみる。
        全ては自分以外だったのでした。
        つまり、認識が発生したその場所も、実のところ「自分以外」なのでした。
        
        自分が存在していない。
        自分と自分以外があって「時間が流れた」という認識が発生するのだから、
        自分が存在しなくて、自分以外しか存在しないなら、「時間が流れた」という認識も発生しないのか?
        いや、その認識は現に発生しているではないですか。これをどう説明するのですか?
        
        一応、無理矢理まとめてみると、次のようになるでしょうか。
        
        自分以外のものを見ている「場所」がある。
        それを今までは「自分」と呼んでいた。
        それを「自分」と呼ぶのをやめる。
        自分以外のものを見ている「場所」に、「時間が流れた」という認識が生じる。
        
        だから、「時間が流れた」という認識は、相変わらず生じているんです。
        それでいて、全ては自分以外。
        この2つは矛盾しない。
        
        これは単に、「自分」という言葉の定義を変えただけでしょうか?
        
        
        せっかくなので、その定義をもう少しだけ整理してみます。
        
        > 自分以外のものを見ている「場所」がある。
        > それを今までは「自分」と呼んでいた。
        
        全ては自分以外なのでした。
        つまり「自分以外」とは「全て」のことです。
        
        したがって、
        「自分以外のものを見ている「場所」」は、
        「全てを見ている「場所」」ということですね。
        
        その場所はどういう場所ですか?
        認識が生じる場所でした。
        もっと大雑把に「思い」と言っておきたい気もします。
        
        なるほど。「思い」があるのですのね。
        私がいて、あなたがいて、あの人がいて、さらに別の人がいて……。
        この世には様々な「場所=思い」がある。
        それはどれ1つとっても「自分」というわけではない。
        それがこの世の景色。
        
        
        
        > それがこの世の景色。
        
        「あの世」や、全く違う構造の世界もあるのかな?
        宇宙人がいるとしたら、もしかすると、そういう何らかの別構造の世界なのでしょうか。
        
        ここは地球。