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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        日常系迷惑行為は世間的には「ない」ことになっている。
        
        まずは用語について。
        「日常系迷惑行為」という言い方をしてみました。
        主に騒音や咳の撒き散らしなど、一回ずつの行為は大したものではないため問題視されにくいけれど、
        日常的に繰り返されることで、近くにいて日常生活をともにしている者に多大なストレスを強いる行為、を指します。
        
        この「日常的に繰り返される」というのがミソです。
        一回一回の行為は些細なことなのだけれど、日常的に執拗に繰り返されることで、日常生活が破壊される。精神が蝕まれる。
        第三者にとっては、そこが理解しにくいところです。
        なぜなら第三者の目には一回一回の出来事しか見えないからです。日常生活が破壊されるという事実が理解されにくい。
        それゆえ「たかがその程度のことで」と思って軽視してしまいがちになる。
        そこが当事者と第三者の間に横たわる大きな溝です。
        
        さて、このような日常系迷惑行為は、世間的には「ない」ということにされています。
        その理由としては、
        
        ・一回一回の行為自体は些細なものであり、意味らしい意味を持たない。
        ・第三者にはその苦痛を理解しにくい。
        
        という2点が考えられます。
        が、理由はともかく、事実として、そうした日常系迷惑行為というものは世間的には「ない」ということになっている。
        「ある」ものが「ない」ということにされている、という事実がある。
        
        だから、日常系迷惑行為の被害者が、その被害を訴えると、おかしな目を向けられてしまう。
        「ない」ものを「ある」と言い張っている頭のおかしな人、というわけです。
        いわば、幽霊がいるとか、超能力がある、などというのと同列、というわけです。
        
        しかし、日常系迷惑行為というものは「ある」のです。
        これはもう、説得してわかってもらうような種類のことではなく、ただ単に、事実です。
        冷静に周囲を見回してもらえればわかるはずです。
        そういう被害を受けて苦しんでいる人が大勢いる。
        その人たちは「ない」ものを「ある」と言い張っているのでしょうか?
        中にはそういうケースもあるでしょう。そしてそうじゃないケースもある。両方ある。
        ということは、それは「ある」ということです。
        
        数字に置き換えてみましょう。
        本当は0なのに1だと言い張っている人がいる。これは本当はゼロなのだから、いくら言い張っても0です。
        一方、本当に1だから1だと事実を言っている人もいる。これは事実として1です。
        さて、両者の数字を合計してみましょう。0+1=1ですね?
        1ということは、「ある」ということです。
        
        唯一の可能性としては、「ある」と言い張っている人全員が「ない」ものを「ある」と言い張っている、というケースです。
        そうであるという可能性も完全に否定することはできません。
        が、確率で考えて、このケースが真である確率はどれほどでしょう?
        コインを10回投げて、10回とも特定の側が出る確率は1000分の1以下です。
        被害を訴えている人の人数は10人なんてものではありません。
        単純に確率に置き換えることはできないでしょうけれど、その確率は非常に低いと言わざるをえません。
        
        というわけで、日常系迷惑行為というものは「ある」ことです。
        ところが「ない」ということになっている。
        これは悪いことです。
        なぜ悪いかというと、事実に反しているからです。
        私たちは「ある」ものを「ない」ことにするという嘘の上に「一般常識」というファンタジーを構築して生きている。
        それは事実に反しているのだから、当然、無理がある。
        どのような無理があるか?
        善人と悪人が逆転してしまう、という現象が発生する、という無理があります。
        
        人に迷惑をかけて苦しめるのは悪いことです。
        しかし、それは「ない」ことになっている。
        だから、いくら悪いことをしても、悪人ではなく、善人ということになる。
        一方、被害者が、その被害を訴えると、「ない」ものを「ある」と言い張る頭のおかしな人、ということになってしまう。
        犯人を責めると、善人に濡れ衣を着せる悪人、ということになってしまう。
        善人と悪人が逆転してしまった。
        
        いわば、殺人や泥棒をした犯人が「自分は犯人じゃない」と嘘をついていて、
        周りの人たちもそれを信じ込んでいる、という状況に似ています。
        被害を受けた人が犯人を責めると、それは、何もしていない善人に言いがかりをつける悪人、ということになる。
        殺人や泥棒をした悪人が善人ということになって、
        被害を受けただけで何も悪いことをしていない善人が悪人ということになる。
        善人と悪人が逆転している。
        
        善と悪が逆転している。
        これは大変なことです。
        
        善いと思ったことが実は悪いことで、
        悪いと思ったことが実は善いことだった。そういうことが起こる。
        
        薬だと思って飲んだものが実は毒で、
        毒だと思って捨てていたものが実は薬だった。そういうことが起こる。
        
        「ある」ものを「ない」ということにする、というのは、これほど大変な間違いです。
        
        
        だから、まず、何はともあれ、認めなければなりません。
        
        日常系迷惑行為は「ある」ことです。
        決して「些細なこと」ではありません。
        
        殺人や戦争のような「わかりやすい悪」と違って地味で目立たないかもしれませんが、
        しかし、存在しています。
        私たちの身近なところに存在していて、少なからぬ人たちの日常生活を破壊しています。精神を蝕んでいます。幸せを奪っています。
        非常に大きな問題です。
        
        繰り返します。
        
        日常系迷惑行為は「ある」ことです。
        重大な問題です。
        殺人や戦争に劣らず、私たちの幸せを奪う大敵です。
        
        そのことを、まずは認めましょう。