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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        立ちくらみ と 酒 の世間での扱われ方の差は何なのか?
        
        
        私は立ちくらみの感覚が好きです。
        好きというか、興味がある。
        意識の状態が変容する。
        あれは一体、何なのだろう?
        あのとき見えている世界は、一体何なのだろう?
        
        意識の状態が変容するとは言っても、酒に酔ったときとはまた違う感覚です。
        感情が昂ぶるわけではない。眠くなるわけでもない。
        意識そのものは、あくまでも明晰なまま。
        それでいて、認識の ありよう が、根本的に、変化する。
        精神を形成している基盤が解体される。
        いわゆる「普段の意識状態」が解体される。
        「時間」という観念、「空間」という観念、「私」という観念、「他人」という観念、
        いわゆる「この世」の感覚。
        三次元空間で、地球上に生きる、そのことを前提として形成されている精神の枠組みが、取り払われる。
        そういう感じがする。
        
        > 三次元空間で、地球上に生きる、そのことを前提として形成されている精神の枠組みが、取り払われる。
        
        だとすると、そのとき見えているのは、一体何なのか?
        「立ちくらみ」の、まさに その さなか、私は("私" は?)一体何を見ているのか?
        あの世界は一体何なのだろう?
        どのような言葉があれば、あの世界を的確に記述できるだろう?
        おそらく「三次元空間の地球上の人間」の言葉では、あの世界を記述できない。
        ではどんな言葉がありえるのか?!
        
        
        
        と、言うようにですね、立ちくらみの感覚にはですね、非常に興味をかき立てられるのであります。
        同じように思っている人は、決して少なくないはずです。
        同じように、ではないとしても、あの感覚に、何らかの「気持ちよさ」を感じる、という善男善女は、決して少なくないはずです。
        これを読んでいるあなたも実は隠れ立ちくらみファンですよね? シークレット立ちくらミストですよね? 恥ずかしがらなくっても大丈夫。
        立ちくらみってのは、いいものです。
        
        ところが、あんまりそういう話を他の人の口から聞いたことがありません。
        ネットで調べてみると、出てこないことはないのですが、極めて少ない。
        検索に出てくるのは、立ちくらみを「直すべき体調不良」とだけ見なす医療系のページばかりです。
        
        これは一体どうしたことでしょう?
        
        
        
        > 意識の状態が変容するとは言っても、酒に酔ったときとはまた違う感覚です。
        
        立ちくらみによる意識変容はほとんど肯定的に語られない一方、
        酒による酔いについては、みなさん非常に雄弁です。
        ここで私が改めて例を挙げるまでもないでしょう。
        
        この差は何なのか?
        
        
        ・考えられる理由その1:再現可能性
        
        立ちくらみはいつでも好きなときに味わう、というわけにはいかない。
        あの感覚を人の手でコントロールするのは難しい。
        
        一方、酒による酩酊感は、酒があればいつでも再現可能です。
        もちろん、シチュエーションに左右される部分は多少あるにせよ、
        店に行けばいつでも購入できる商品を使って、手軽に酩酊感を再現することができる。
        
        そしてそれは、その感覚を他人とも共有しやすい、という事実につながります。
        
        というわけで理由その2。
        
        
        ・考えられる理由その2:他人と共有できる
        
        酒による酩酊感は「酒」という客観的なツールを使って、いつでも、そして誰でも、再現できます。
        もちろん人によって感じ方に差はあるでしょうし、実のところ、他人の感覚と自分の感覚が同じかどうかというのは検証不可能なのですが、
        しかし、いつでも誰かと「酔っ払い同士」になることができる。その事実は大きい。
        
        持続時間の長さも重要な要素でしょう。
        酩酊感は、それなりに長く続く。だからその間に、他人と関わることができる。
        
        一方、立ちくらみは持続時間が短い。
        しかも再現が難しい。
        ゆえにそれは、いつ訪れるか予測不可能な、特殊かつ唯一の、そして個人的な体験に留まる。
        
        個人的な体験に留まるものと、他者との共有が容易なものとでは、
        世間での言及の頻度に差が生じるのは必然と言えるでしょう。
        
        
        ・考えられる理由その3:意識変容の内容・性質の違い
        
        これはあくまでも私の感じ方、なのですが、
        酒による酩酊感では、意識の根本的な枠組みが解体されるということは、ない、ように思います。
        歩きにくくなったり、感情が高揚したり、眠くなったり、ということはあっても、
        それはあくまでも、通常の意識の枠組みそのものを壊しません。その範囲内でのことです。
        パラメータの値は変化するけれど、パラメータの項目そのものは同じです。
        
        それに対し、立ちくらみでの意識変容では、意識の枠組みそのものが瞬時に変化する。
        ハッキリ言って、わけがわからない。
        冒頭でも書いたように、立ちくらみの最中に、一体何が見えているのか、「通常の言葉」で記述することができない。
        
        つまり、社会にとって、どちらの方が危険か? ということです。
        それはもちろん後者です。
        
        酒にいくら酔っても、社会の根底をなす枠組み、には影響がない。
        縦横高さという3次元の空間と、過去から未来へと流れる一方通行の時間を全員が共有しており、
        言葉で意志の疎通を図る個人、が、集まっており、
        音や光といった物理現象の中で生きている、
        というような、根本的なこと、「この世とは、こういうもの」という共通の理解。
        酒にいくら酔っても、そこまでは、そうそう簡単には壊れない。
        
        しかし、立ちくらみの場合は、そうではない。
        そうした「この世とは?」という共通の理解を、いとも簡単に超えてしまう。
        それは社会にとって、脅威的なことなのではないか?
        
        だからそれは、「直すべき体調不良」でなければならない。
        (その他の「精神病」がそう扱われるのと同じように)
        
        つまり治療の対象です。
        
        「対象」というところがポイントです。
        「主観的な私の体験」ではない。
        「直すべき対象」です。
        どこまでも他人事、として扱われる。
        自分の身に起きたことなのに、それを語ったとたん、他人事ということになる。
        「最近よく立ちくらみする」と言ったとき、
        「立ちくらみ」という体験の中で「私」が何を見たか? という語りではない。
        あくまでも、直すべき体調不良としてしか語られない。そのようにしか扱われない。
        そして、そうである限り、我々を取り囲んでいる社会の枠組み、この世の枠組み、は維持される。世は全て事もなし。神は天にいまし。
        
        
        
        
        > そうした「この世とは?」という共通の理解を、いとも簡単に超えてしまう。
        > それは社会にとって、脅威的なことなのではないか?
        
        であるならば……、
        だからこそ、私は立ちくらみの体験を大事にしたいと思う。
        
        この世の枠組みの根本を問い直す営みは、この世で生きる上で不可欠であると考えるからです。
        それを欠いては、自己の立ち位置、生きる意味を見失いかねない。
        よりよい生のために、そうした営みは必要であるはずです。
        そして、立ちくらみの体験を大事にすることは、その役に立つはずです。
        
        
        と、思ってさっきから何度も立ったり座ったり背伸びしたりしていたら頭が痛くなってきました。二日酔い、ですな。
        
        
        
        
        
        
        
        
        ここまで書いて思い出したのですが、
        「失神ゲーム」ってものがありましたね。
        再現される現象は、多分同じなのだと思います。
        
        しかし予想通りですが「失神ゲーム」で検索すると、ロクな情報が出てきませんね。
        よってたかって悪者扱い。むしろ陰謀めいたものを感じます。
        あの感覚を通して人類が覚醒することを恐れている者どもが存在する。
        ゆえに、その覚醒を阻止せんとする悪しき陰謀が、ときに水面下で、あるいは白昼堂々と、今この瞬間も僕らの街で進行中なのであります。
        負けるな! 立ちくらむんだ!
        
        ところで「失神ゲーム」っていう名称、私知りませんでした。
        あの行為そのものは昔やったというか、やられたというか、していただいたことはあるのですが、
        「失神ゲーム」という名称を知ったのは、そのずっと後です。当時は知りませんでした。
        
        この名前をつけたのは、一体誰なんでしょう?
        ネットで検索していると「"ゲーム" などと気楽な名前で言ってますが、危険なものです!」というお説教を頻繁に見かけます。
        しかし、あの行為を「失神ゲーム」と呼んでいる(いた)のは、一体誰なのか?
        あの行為をしている人ではなく、あの行為をやめさせようとお説教している人が、そのように呼んでいる(いた)のではないか?
        
        マッチポンプの匂いがする。("マッチポンプ" の使い方、合ってます?)
        わざと軽い響きの名前をつけておいて、
        「おまえらはそれを軽い遊びだと思っているようだが……」と、お説教する。
        そういう段取りが自演されている(いた)のではないか?
        
        なんだかね、「失神ゲーム」って、いかにも、なんというのかな、センスのないネーミングだと思うのですよ。
        あの行為をするヤングたち自身の間で、そんな名称が使われていたとは、あんまり思えない。
        
        「おぅおぅ、ちょいと失神ゲームやろうぜ」
        「いいねぇ。クールに失神キメようぜ」
        
        「ヘーイ、そこの彼女ぉ、失神ゲームしない?」
        「うふふ。気持ちよくしてア・ゲ・ル」
        
        などという会話がありえるのか? 全然ナウくない。イモです。
        こんなダサイ名前をつけるのは大人たちの仕業に決まってます。だから大人なんて嫌いなんだ! 校舎の窓ガラスを割ってやる!
        
        
        
        あとね、あの行為を、何か、いじめの一種であるかのように混同した言及を、しばしば見かけた気がします。
        もちろんそういうケースもある(あった)でしょうし、そしてもちろん、それはよくないことです。
        本人の意志に反して行うのはよくない。
        酒で言うと「アルハラ」ですよね。
        しかし、あの感覚そのものが悪いわけではない。
        
        アルハラが存在するからと言って、酒や酔いそのものが悪いということにはならないのと同じで、
        いじめまがいの「失神ゲーム(ダッサイ名前!)」があるからといって、あの感覚そのものが悪いということにはならない。
        本人の意志に反したことをするのがよくないということです。
        
        あるいは、あのやり方に問題があるのかもしれません。
        あのやり方だと、どうしても誰かの協力が必要ですよね。
        しかもやられた方だけがイってしまう。関係が非対称です。
        そうなると結果的に、「誰か一人を狙って失神させる」という、いじめまがいの行為にもなりがち、ということだったりするのでしょうか?
        
        関係が非対称じゃない方法でやれるといいのかもしれませんね。
        たとえば2人で行うとして、向き合って、胸を合わせて、互いに寄りかかり合う。
        
        わかりやすい図解
        ↓↓↓
        
           ○○
         /XX\
        人      人
        
        こうして2人で一緒にイケば、体験を共有することができる。2人の関係がより深まる。あら素敵!
        
        「あたし、2組の田中くんと失神ゲームしちゃった」
        「ウッソー! マジデー?! ねねねね、どんな感じだった? どんな感じだった? どんな感じだった?」
        
        
        ダメだ。なんだか途方もなくダメだ。
        "失神ゲーム" というネーミングがね、もうね、果てしなく昭和の香り。
        誰かもっとクールな名前を考えて下さい。
        21世紀に相応しい洗練された名称を考えて下さい。
        ちなみに英語では何というのかと思って検索してみたら、fainting game って言うのですね。直訳か!
        どっちが先なんでしょうね。
        英語 → 日本語 なのだとすると、わざとダサイ名前をつけたという陰謀説は、少々怪しくなりますね。
        
        
        しかしそんなことはどうでもいい。
        我ら立ちくらミスト(カッケー名前!)が志すのは、あくまでも立ちくらみなのです。
        人為的に起こすことができないというところにこそ、立ちくらみの醍醐味がある。
        間違っても意味もなく立ったり座ったりを繰り返して立ちくらみを起こそうなどとしてはいけないのであります。
        
        そして、他人を巻き込んでやるのも良くない。
        自分の身に「運よく」偶発的に降りてくるのを待って、それを、有り難い授かりもの、として、大事に味わう。
        そのような謙虚な態度こそが、立ちくらみという僥倖(ぎょうこう)に与(あずか)る者には求められているのではないでしょうか。
        
        立ちくらみは一人で静かに味わうものと言えるでしょう。
        いわば自己と神との対話の時間です。
        天にまします神と、事もない世を超えて、ひとときの交わりを。