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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        目的なんて幸せ以外にありえない
	
        いわゆる「現実は」どうである、というようなことをいかに正確緻密に論じ上げたとしても、
        どうしても残るものがある。
        
        「でも、あなたは本当にそれを望んでいるんですか?」
        
        根本的に何を望んでいるか?
        そこを見失って「現実は」どうである、という議論に明け暮れても、何の意味もない。
        
        そうした議論で描き出された「現実」を生きることは幸せなことなのか?
        
        
        > そこを見失って「現実は」どうである、という議論に明け暮れても、何の意味もない。

        ネットを見ていると、そういう議論が上手な人をよく見かける。
        もう、本当に上手。天才的だなって思う。不幸の天才。
        自分が不幸になるロジック。人を不幸にするロジック。
        天才的に上手なロジックだから、議論したら、多分、私、負けます。勝てる人はあんまりいないと思う。
        
        だからね、そもそも、そういうロジックに巻き込まれないように、距離を置くしかない。
        そのロジックは「正しい」かもしれないけれど、
        「でも、本当はそんなこと望んでないでしょう?」ってことです。
        
        みんなで幸せになりましょう。
        技術的には難しいかもしれないですが、根本的にはそれが願いであるはずです。
        それを否定する必要はどこにもない。
        
        
        > ネットを見ていると、そういう議論が上手な人をよく見かける。
        > もう、本当に上手。天才的だなって思う。不幸の天才。
        
        それはあるいは、正しくない現状認識(常識)への反抗、という意味合いだったりするでしょうか?
        それはありそうな気がします。
        
        だからきっと、そこで反抗の対象になっているもの(常識)もまた、きっと、あんまり「正しくない」んです。
        だけれども、結局どちらも、そもそもの的を外している気がします。
        
        
        たとえば、こういう図式。
        とある常識は次のように言う。
        
        "世の中は A または B で出来ている。
         A は善であり、B は悪である。
         ゆえに人は A を目指さねばならない。
         そうでない者はすべからく B なのであり、すなわち悪である!"
        
        これに反抗して次のように言う。
        
        "A を目指すやつは善人のフリをしている悪人だ。ゆえに B を目指す人間の方が正直なのだ! B こそが正しいのだ!"
        
        
        いずれにせよ、結局、"A か Bか?" という対立構造に閉じ込められている。
        そもそも物事を A か B かで分けて、片方が正しくて片方が悪い、というふうに言ってしまっていることがマズかったのではないのか?
        
        目的は何であったのか?