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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        選挙カーの騒音は「まだマシ」だと思う。
        
        選挙期間になると選挙カーがマイクで候補者の名前を連呼してうるさい、
        とは、わりと昔から言われていたことのように思います。
        
        しかりそれに比べると、
        ちり紙交換などの移動販売業者のスピーカーや防災無線などに対する苦言はあまり聞かない気がします。
        
        もちろん両方ともうるさいので私は両方とも嫌いですが、どちらかといえば後者の方がより嫌いです。
        なぜなら前者は選挙のときだけの期間限定ですが、後者はほぼ毎日のことだからです。
        私の日常生活を破壊しているのは後者です。
        もしも古びた壺から魔人が出てきて「どっちかを消してやる」と言われたら、私なら後者を消してもらいます。
        
        しかし世間の声に耳をすませてみると、逆になっているような気がするのです。
        選挙カーへの不満の声はかなり一般的と言えると思うのですが、
        移動販売トラックや防災無線への不満の声はあまり聞かない。確かに存在はしますが、決して多数派とは言い難い。
        むしろそうしたものへ不満を言うこと自体が異端視されている。

        曰く「神経質すぎるんじゃないの? 無人島にでも引っ越せば?」
        そのように言うその人がまさに同じ口で「選挙カーうるさい!」などと言ったりする。
        きっとこの人が魔人に消してもらうのは選挙カーの方であることでしょう。

        不特定多数にアンケートをとったわけではなく、私個人の肌感覚でしかありませんが、
        ネットで概観した限りでも、大体こうした傾向が一般的であるように思います。
        
        選挙カーには文句を言うのに、ちり紙交換や防災無線には文句を言わない。
        なぜそういう差があるのでしょう?
        
        おそらく、日常と非日常、という差ではないでしょうか?
        
        ちり紙交換や防災無線は日常です。
        選挙カーは非日常です。
        
        選挙カーだけを否定するというのは日常に入り込んでくる非日常を拒否しているということなのではないか?
        ちり紙交換は「毎度おなじみ」だけれども、選挙カーは「おなじみ」じゃない。そういうものを拒否する。
        そういう心理なのではないか?
        
        このことは、ちり紙交換や防災無線に苦情を言う人に対する批判ともつじつまが合います。
        ん? 
        今ちょっとややこしいことを言いましたね?
        「苦情を言う人に対する批判」って何でしょう?
        
        世の中には(私のように)ちり紙交換や防災無線に不快感を感じ、苦言を呈している人間がいます。
        しかし、そうではない人たちもいる。
        そうではない人たちが、苦言を呈している人に
        「そのぐらいで文句を言うなんて神経質だ! 心が狭い! 我慢しろ! あれは日本の風物詩だ! 受け入れろ! 嫌なら無人島に出ていけ!」
        などと批判の矢を放つ。そういうことが起きている。起きているんですよ? 怖いですね〜。
        以上、背景知識でした。
        
        さて、話を戻しましょう。
        
        > このことは、ちり紙交換や防災無線に苦情を言う人に対する批判ともつじつまが合います。
        
        「自分たちの日常」を守っている、ということです。
        つまり、ちり紙交換や防災無線は既に「"我々の" 日常の風景」なのであり、
        そこに苦言を呈するような輩は「"我々の" 敵である」というわけです。
        
        そしてその感覚からすると、選挙カーのスピーカー音声は「"我々の" 日常の風景」には存在しない音なのであり、
        「騒音」として攻撃の矛先を向けることに躊躇はない、ということなのではないでしょうか。
        
        
        ですが、私はむしろ選挙カーの方が「マシ」だと思っています。
        理由は主に2つです。
        
        ・非日常だから
        ・全市民(私含む)に一応は関係があることだから
        
        
        > ・非日常だから
        
        うるさいのは事実ですが、選挙期間の間だけのことです。
        一年中選挙をしているわけではありません。
        選挙カーがいくらうるさくても、少しの間だけ我慢すれば済みます。
        
        それに対してちり紙交換や防災無線は日常のことです。
        一年中ずっと続きます。来年も続きます。その次の年も続きます。
        おそらくその次の年も。ずーっと毎日続く。想像すると背筋が寒くなります。
        鳴っているときだけ我慢すれば済む、というものではありません。一難去ってもまたすぐにやってくる。
        むしろ一難は次の一難の予兆でもあり、絶望感を煽ります。出口がどこにもない。可能なら本当に無人島に逃げたいぐらいです。
        (ちなみに私は普段から語学の勉強を続けていますが、その理由の一つはいつの日か外国に逃げるためです)
        
        選挙カー(のスピーカー音声)はあくまでも非日常なのであって、普段の生活には影響のないことです。
        しかし、まさにそこのところの感覚が、私以外の少なからぬ人にとっては「逆」なのですよね。
        
        
        >・一応、全市民(私含む)に関係があることだから
        
        もちろん、選挙活動のやり方には批判のしどころがあるでしょう。
        「名前の連呼なんかしたって意味ないじゃないか!」
        
        現行の政治のあり方についても批判のしどころがあるでしょう。
        「どうせ誰が当選しても同じなんだ」「どうせ結果は決まってるんだ」
        
        そうは言いますが、一応は民主主義のこの国において、選挙は国民が政治に参加する数少ない機会であり権利の一つです。
        少なくとも、音を出す理由としての「選挙活動のためだから」というお題目に、それなりの正当性はある。
        選挙という名目でただ単に騒いているだけというわけではない。選挙をしていること自体は事実です。
        あの活動はあれを「うるさい」と言っているあなたにも関係がある。私にも関係がある。
        
        それに対し、ちり紙交換や防災無線はどうでしょう?
        ちり紙交換などの移動販売業者は、それを顧客として利用している人だけには関係があるかもしれませんが、
        その業者を利用しない人にとっては全く関係ありません。
        防災無線にしても、本当に重要な防災情報であれば別ですが、ほとんどは無意味な放送です。
        たとえばその代表は時報ですが、勝手に鳴らされているのであって、私の日常生活のリズムとは関係がない。
        (「点検のため」というのが建前ですが、だからと言って時報である必要は全くなく、誠意を欠いた虚偽の理由との誹りは免れ得ません)
        (加えて、本当に点検をしているのかどうかも極めて疑問。この点は選挙とは真逆)
        
        ちり紙交換や防災無線は(私を含めて)少なからぬ人にとって無関係な音です。
        全員に関係があるというわけではない。
        それなのに全員に向けて放送され、音が届く範囲にいる人間全員が強制的に聴かされる。
        拡声器という装置の威力で、家の中にいても外から大音量で聴かされる。
        
        選挙カーの音声も強制的に聴かされるという点では同じですが、
        あれは全員に関係のある音です(少なくとも理屈の上では)。
        
        
        もちろん、選挙カーのスピーカー音声がうるさくない、と言うつもりはありませんし、
        あのような選挙活動の手法が適切であるとも思いません。
        また、選挙カーとその他のスピーカー騒音を比べて、
        片方の方が問題だから、もう片方は問題ではない、などと言うつもりもありません。
        どちらも問題です。やっていることはどちらも同じであり、同じ問題を引き起こします。
        そもそも拡声器を使うこと自体が人に特定の音声を聴かせることを強要する暴力なのであり、
        決して軽々しく使っていいものではありません。
        
        しかし、選挙カーをうるさいと言う人が、案外、その他のスピーカー騒音には鈍感であることが少なくないようで、
        そこのところに私は疑問を感じる、ということです。
        

        では最後に、なぜこうした差が生じるのかについて、少し考えてみたいと思います。
        
        移動販売や防災無線を擁護する人たちの口から出てくる言葉は、大抵、「やさしさ」を言い聞かせる内容のものです。
        「必要としてる人がいるんだから、それぐらい我慢してあげましょうよ」などなど。
        
        そのように自分以外の他者への思いやりの心があるのであれば、
        むしろ選挙活動にこそ積極的に関与して、コミュニティの改善に取り組んではどうかと思うのですが、
        私の見る限りでは、そういう行動をなさっている方はあまりいないようです。なぜでしょう?
        
        また、弱者へのいたわりの心があるのであれば、
        ああした音に苦痛を感じる(私のような)人間へもお得意の「やさしさ」を振り向けてくれてもよさそうに思うのですが、
        私の見る限りでは、そういう行動をなさっている方はあまりいないようです。なぜでしょう?
        
        
        つまり、いわゆる「騒音」と一言で言いますが、
        単に「音が大きい」というだけではなく、それ以上の意味が潜んでいるということです。
        
        果たしてそれは何なのか?
        
        「選挙カー」と「移動販売及び防災無線」の騒音源としての認知度の差に、
        そうした「それ以上の意味」を読み取ることができるのではないでしょうか?
        
        あなたも一度考えてみてください。
        
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