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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        「幸せを願う相手としての人間」という人間観 <自分の代わりにロボットを会社に行かせてはいけないのか?>
        
        
        「AI技術が発展すれば人間は働かなくて済むからベーシックインカムが実現する」
        というような言説をしばしば目にします。
        しかし、現状ではそれは難しいような気がします。
        AIの技術は発展を続けています。
        しかし、人間の側が相変わらず「人間に求めているもの」がある。
        
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        ■ 自分の代わりにロボットを会社に出勤させてもよいか?
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        理論上は「いい」はずです。
        しかし、現状の日本の文化風土からすると、許されないような気がします。
        そうでもないですか? 私の気のせいですか? それならいいんですけどね。それなら。
        
        
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        ■ なぜ人間じゃないといけないのか?
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        一般論としての「人間の方がいい理由」はいろいろあるでしょう。
        人間の方が柔軟性があるだとか、不測の事態への応用がどうのこうのとか。
        
        そういう「人間の方が優秀な面があるから」というのも、
        「じゃあロボットがもっと優秀になったら人間は不要ってことなの?」
        というイタチごっこ(?)なのですが、
        
        「自分の代わりにロボットに会社にいかせるなんてケシカラン!」という文脈に限って言えば、
        そういうイタチごっことも違う、別の理由があるような気がします。
        
        つまり、
        「ロボットに任せて楽をするなんてケシカラン!」というわけです。
        「人間が苦しめ!」というわけです。
        
        それこそ、攻撃衝動を発散したいならロボットを相手にしていて欲しいところですが、
        「やっぱモノホンの人間が苦しむ顔を見たいよなぁ。ククク」というわけです。鬼畜ですね。
        
        「人間の価値」は「苦しめ甲斐があるから」ということです。
        これでは人類の将来は暗いと言わざるを得ません。
        
        
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        ■ ロボットと競い合ったら負ける
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        上で触れた「一般論としての「人間の方がいい理由」」についてです。
        上でも書いたように、これはイタチごっこですよね。
        いえ、イタチごっこでさえない。
        だって、ロボットは発展を遂げる一方ですが、人間は全然進化しないからです。最初から負けてる。
        ロボットの腕を三本に増やすのは簡単ですが、
        人間が進化して腕の数が増えるには一体何億年待たないといけないでしょう?
        
        例えばロボットは「文脈が読めない」だとか「応用が利かない」だとか、
        そういう理由を持ち出して「やっぱ人間の方が優秀!」などと言っていられるうちはそれでいいのかもしれません。
        しかしロボットを開発する側だってそんなことは百も承知です。
        いかにして文脈を読むか? いかにして応用を利かせるか? といった研究が日々進められている。
        AIを作るAIなんてものさえ研究されている。
        いずれ「文脈が読めて応用の利く」ロボットが出現したとき「ごめんなさい。負けました……」と言うしかないのか?
    
    
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        ■ 戦え! 負けろ! 苦しめ!
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        > いずれ「文脈が読めて応用の利く」ロボットが出現したとき「ごめんなさい。負けました……」と言うしかないのか?
        
        競い合うと、いずれこうなる。
        
        今のところは、総合的な意味で「人間以上の」AIは出現していないはずです。
        しかし、そういう理由で「やっぱり人間の方がすごい」と言い続けることには限界がある。
        
        もちろん、本当にこのままずっとAI技術が発展を続けていくのかどうか? それはわかりません。
        もしかすると、どこかで越えられない壁にぶつかって、発展が停滞するのかもしれません。
        
        でも、そういう問題ではない。
        
        「何かと比べて優秀だから」という理由で価値を認める、という発想を、
        人間に対して当てはめている、そのこと自体の限界が見えてきた、ということです。
        
        結局のところ、それは、人間を何かの道具として利用する、という発想です。
        役に立つか立たないか? そういう基準で人間を裁く。
        役に立つやつは「いい子いい子、頭ナデナデ」ですし、
        役に立たないやつは牛乳拭いた雑巾を机の中に入れておく。
        そういう発想です。
        
        だから、AIが優秀になっても、相変わらず「人間が会社に来い」であり、
        じゃあ、わざわざ会社に来てくれた人にどう報いるかと言えば、
        牛乳拭いた雑巾でお出迎え、です。
        だってそいつは「役立たず」だから。
        せいぜい苦しめてやるのが礼儀ってもんです。
        
        それが、人間を値踏みする社会の行き着く先です。
        「値踏みする対象として」人間を見ている限り、そういうことになってしまう。
        
        しかし考えていただきたい。
        人間は「値踏みする対象」ではない。
        
        
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        ■ 愛せ!
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        > 役に立つか立たないか? そういう基準で人間を裁く。
        
        言い換えると、これは、
        「してもらう」ことしか考えてない、ということです。
        
        だから、その相手が自分の求めることを実行するだけの「能力があるか・ないか?」
        が常に問題になる。
        
        逆の発想が必要です。
        
        たとえば、今あなたの目の前に人間がいる。
        さぁどうしよう?
        そいつの能力を計測して値札を付けてやろうか? さぁて、こいつは「いくら」かな? ククク。
        違うでしょ!
        
        じゃあどうするのか?
        目の前に人間がいる。
        さぁどうしよう?
        決まってるじゃないですか。
        その人を愛するんですよ!
        それが「目の前に人間がいる」ということの意味です。
        それが地球に人類がいるということの意味です。
        愛し合え! 相手の幸せを願え!    
        
        これは相手が人間だからこそ成立することです。
        ロボットには心がありません。
        心のない存在が幸せを感ずるということもありません。
        相手が心のある人間だからこそ、その相手が幸せでありますように、と愛を振り向けることができる。
        
        もちろん逆も可能です。
        心のある存在だからこそ、苦しみを感じる。
        相手が心のある人間だからこそ、牛乳拭いた雑巾で苦しめることができる。
        ロボットだったら「苦しんでいるような動作」をするだけですが、心ある人間は本当に苦しむ。
        「やっぱモノホンの人間が苦しむ顔を見るのは最高だぜヒャッハー!」
        「相手に心があること」の意味がそこに落ち込んでしまうならば、それは人類が滅びる道です。
        
        ロボットではない、心のある人間に対して、どのように向き合うか?
        私たち一人一人の態度が問われています。
        私の態度が問われています。あなたの態度が問われています。
        
        一応、念のために言っておきますが、
        これは「愛する能力を競い合う」ということではないですよ?
        そういう発想では、
        「あいつは愛するのが上手で、あいつは愛するのが下手クソだ。ゆえに牛乳雑巾でおしおきだべぇ〜!」
        ということになってしまう。
        
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        今日も私の嫌いな人が幸せでありますように。
        今日も私を嫌っている人が幸せでありますように。