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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        ブラウザゲーム「愛と哀しみの出口戦略」のリリース後の雑感
        
        
        そんなわけで前回の続き。
        前回はリリース直後で瀕死だったゆえリリースの報告だけで精一杯だったので、
        今回はこのゲームに込めた熱く激しい想いのたけを原稿用紙ン百枚分の大長編でたっぷりと……
        と思ったのですが、そんな話に興味があるのはせいぜい数百億人程度の私の大ファンだけでしょうから、
        中ファンおよび小ファンぐらいの皆さんにもご興味をお持ちいただけるよう、
        もう少々一般的な話から入りたいと存じます。
        
        
        で、これは多分一般的というか「あるある」だと思うのですけど、
        ツイッターってリンクがクリックされませんよね。
        ツイッターというか、ネット全般でそういう傾向があるのだとは思うのですけども、
        ツイッターだとその他の露出数とのギャップが特に際立つ気はします。
        こんだけ触られてるのに、リンク踏んだ人こんだけかよ、みたいな。
        
        マインドルの公開後、宣伝用にアカウントを作って、私なりに考えて宣伝を続けてきたわけですが、
        最近は、なんていうのかな、「諦めている」と言ってしまうと語弊があるのですが、
        「その目的」自体に関しては、ほとんど「意識してない」「忘れている」「放置している」感じです。
        
        リツイートや「いいね」を押してもらったりフォローしてもらったりはしても、
        結局、リンクはほとんどクリックされない。
        
        少なくとも今のやり方では、ちょっともうなんだかドウニモナラナイのでしょうね。
        
        私のコンテンツに問題があるから、という可能性を考慮・反省しないわけではないですが、
        根本的にその要因はあんまり関係ない気がします。
        なぜかと言えば、他の人のコンテンツに言及する内容のツイートを投稿した場合でも、
        やっぱりリンクがクリックされないからです。
        いくらRTやいいねをされても、ツイッター側のアクセス解析を信用する限り、リンクのクリックは常に激レアです。
        「ゲ制」以外のアカウントでニュース記事などを引用したような場合でも同様です。
        
        他の人のコンテンツに言及する書き込みをする際は、
        基本的にダウンロードページなどのURLを書き添えるようにしており、
        僭越ながら知名度の向上に微力を添えることができれば身に余る光栄の極み……ッッ!!!
        という思いで、投稿後はリンクのクリック数に一喜一憂しております。
        で、そのクリック数が常に激レアである、と。
        もしくは私の文章がよほど人を寄せ付けない禍々しいオーラを放っているのでしょうか。
        
        「リンク先の内容に興味を持つこと」
        と
        「ツイッター側でのリアクション」
        は
        イコールとは言わないまでも、相当程度に相関関係があるだろう、
        と
        ツイッターを使い始める前の私は(素朴に)思ってました。
        
        だからこそ、ツイッターという(最近ちまたで大ブレイク中の)メディアに「宣伝効果」を求めた。
        
        しかし、その考えは根本的に間違っていたらしい、というのが現在の認識です。
        
        リンク先の内容にまったく興味がなくても、
        ツイッター側でリアクションを行うということは充分にありえることであり、
        むしろその方がデフォルトと言ってもいいのかもしれません。
        
        具体的に言えば、ツイッターのアナリティクスの数字上、
        いいねやRTの数に比べて、リンクのクリック数の方が、常に下回るということです。
        (「常に」の前に「ほぼ」をつけておこうかと思いましたが敢えてつけないでおきます)
        
        ちなみにアナリティクスって、各投稿の右下にあるこのボタンで見れるやつね。
        ↓ (別に特殊なアクセス解析をしてるわけでもなんでもないですよ、という話)
        
        
        
        文化を誤解していた、と言えばいいのかな。
        心情的には「おいおい、リンク先も見てくれよな〜!」という思いはあるのですけど、
        それを言っても仕方がありません。
        もともとSNSというものをずっと使わずにいましたし、感覚にズレがあったのかな。
        今でもそのズレは埋めかねておりますが、
        ともかく「こういうものだ」という現実・事実は受け入れざるを得ません。
        
        もちろん、リンクがクリックされにくいというのは昔ながらのWebの伝統ではあるので、
        さほど驚くようなことではないのでもあるのですけども、
        ただ、ツイッターの場合は、各種リアクションの機能があるじゃないですか。
        その敷居の高さが、
        「そうしたリアクション < リンクのクリック」
        であるというのは私としては意外だった、ということです。
        その不等号は逆向きだと思ってたのですけども。
        
        だって奥さん、そうしたリアクションの方が「表に出る」じゃないですか。
        それに対してリンクのクリックは、「見えない」じゃないですか。
        件数だけは投稿主のアナリティクスで分かるようになってるとは言え、
        あくまで裏側のことであり、誰がクリックしたかまでは分からない。
        
        一方、各種リアクションはその逆です。
        つまり「匿名性」という点では、
        「リンクのクリック > そうしたリアクション」
        なわけです。
        
        なので、例えば、
        「リアクションをするのは抵抗があるけれど、"こそっと" リンク先を見る」
        という行動の方が、ネット(匿名性を旨とする世界)的には実行しやすい筈、と、
        いう感覚が、今でも私の中にはあります。
        実際、私の場合は、リンクの方がクリックの抵抗が少ない。
        
        そこのところが、結局、「ズレ」ということなのですよね。多分。
        リンク先を見る気はないけれど、リアクションならする、と。
        その感覚を私は今でも把握しかねております。
        しかしそれがSNSという、一応匿名ではあるものの、ゆるやかな「つながり」を旨とする世界での文化、
        と考えねばならないということですかね。
        
        私が過去に浸ってきたのは、「つながり」のない、匿名性中心の文化なのでしょうね。
        そこのところがおそらく「ズレ」の原因になっているのだろうなという気はしております。
        それとも、何か私の側に、もっと根本的な勘違いがあるのか……?
        (上述のような認識フレーム自体が「ズレ」ている可能性)
        
        ちなみに、コレを言うとイヤラシイ話になってしまうかもしれませんが、
        まだ誰もリンクをクリックしていない状態で誰かにイイネやRTをされると、
        アナリティクスの数字を信用する限り、
        「あ、この人(たち)はリンクはクリックしなかったんだな」というのは分かってしまう。
        
        それが悪いことだと言いたいわけでは決してないのですけど、
        割とそういう行動が(私の思う以上に)普遍的に行われているものなのだぁ、
        という、(むしろ私自身の「ズレ」に対する)一種の「しみじみ感」です。
        あと、リンク先はすでに知っているから敢えてアクセスはしないというケースもあるかな?
        いつもご贔屓にしてくださってありがとうございます。
        
        なお、「アナリティクスの数字を信用する限り」、と書いたとおり、
        あの数字自体、反映が今ひとつ正確じゃなかったり、リアルタイムじゃなかったりするようなので、
        個別の他人の行動を断定できるほどの証拠にはなり得ない、とは申し添えておきたいと思います。
        いや別に、断定したとして、だからどう、という話ではないのですけども。ごにょごにょ。
        
        
        > 具体的に言えば、ツイッターのアナリティクスの数字上、
        > いいねやRTの数に比べて、リンクのクリック数の方が、常に下回るということです。
        >(「常に」の前に「ほぼ」をつけておこうかと思いましたが敢えてつけないでおきます)        
        
        それともこの法則が成立しているのは私だけなのかな???
        私だけ何かすんごいハブられてて、
        「リンクはクリックするなよ! いいねだけにしとけよ! イヒヒヒ!」という情報を
        私以外の世界中の皆さんでシェアしてるんでしょ? 隠したって霊能力のある私にはお見通しです。
        私の部屋に盗聴器をしかけて監視してるんでしょ? 隠したって霊能力のある私にはお見通しです。
        
        霊能力はさておき、誰かに言及していただいたときでも
        基本的にアクセスされ感がさほど変わらない場合が多いので、
        おそらく傾向としては大体「そういうもの」なのでしょう。良し悪しではなく。
        
        ただちょっと、SNS(「つながり」を旨とする世界?)の使い方という点で、
        私は「つながり」を軽視してしまってるかな、という反省はあります。
        そんなことだから、
        「リンクはクリックするなよ! いいねだけにしとけよ! イヒヒヒ!」という情報を
        私以外の世界中の皆さんでシェアされてしまうのですね。これではイケません。
        
        とは言うものの、「つながり」と言ってもあまり得意な領域ではないので、
        反省したからと言ってドウニモナラナイのではありますが。
        ましてや「営業」のために「つながり」を深めにいくのか? という自己ツッコミも生じるところであり、
        そうなってくると、ますます、「むしろディスタンスを開けねば!」と、慎み深い私は決意を固めてしまうのであります。
        しかしツイッターに限らず「営業」とはそういうものではあるのでしょうね。一緒にゴルフ行くとか。平成か。
        
        話は少し変わりますが、選挙で当選するには、単に思想や政策を語るだけではダメで、
        その選挙区の人々との「つながり」が大事である、と言います。
        新しく出てきた人が、本人の発言を聞く限りでは非常にまともなことを言っているのにほとんど投票してもらえず、
        一方で、昔から地元に密着してる人が、当たり障りのないことしか言ってないのに当選を続ける、なんてよくあることです。
        良し悪しは別として、そうしたことが、
        世の中を動かす無視しがたい力の源泉であるのは1つの事実ではあるのでしょう。
        
        確かに、人間って意外と「嘘をつけない」生き物だったりしますので、
        普段付き合いのある人に「○○氏に投票して!」と頼まれて、社交辞令でもイエスと言ってしまうと、
        投票の当日、誰が見張ってるわけでもなくても、別の人に投票するのは心理的に抵抗があるのではないでしょうか。
        それに、後日その人と顔を合わせたときに、どんな顔をすればいいというのか?
        そこで何の心理的抵抗もなく嘘をつき通せる人は、決して多くはない気がいたします。
        良し悪しではなく、案外そういうことで世の中が動いちゃってる面はあるのではないかな。わかりませんけど。
        
        
        さて、それはさておき、
        さしあたりツイッター以外に情報発信の窓口を持っていないというのも私の現状ではあります。
        上述のような「感覚のズレ」があるとは言え、以前より少しはその性質が飲み込めてきたとも言えるでしょう。
        
        ではそれを踏まえて、
        ツイッターと親和性が高くなるような形で、コンテンツを作ってみてはどうか?
        今回の『愛と哀しみの出口戦略』の背景には、1つにはそういった陰謀があったりもします。
        (やっと話題が戻ってきた!)
        
        具体的には、まず「ブラウザゲーム」というのがそれですね。
        そもそもダウンロードしなくていいという点で敷居が低い(ハズ)であり、
        ただでさえリンク先を見に来てもらいにくい中、
        リンクのクリックから→実際にプレイまでの距離はできる限り短い方が望ましいだろうということです。
        
        ただちょっと心配なのは、
        「リンク先に移動するとすぐにプレイ開始」というのは本当に「いい」のか? ということです。
        
        これが例えば、ツイッター上でリンクをクリックして→直接Zipファイルのダウンロードが始まったりなんかすると、
        「うげげ」って思われても仕方ない気がするのですよ。反射的にキャンセルされそう。私ならする。キミもする。催眠術。
        つまり、クリックする立場としては、
        「まだ、私たちそういう関係じゃないのに」
        という「意図のギャップ」があるであろう、と、得意のテレパシーで読み取ることができます。
        
        その点、ブラウザゲームであれば、アクセス先のページですぐにプレイできるようになっていても違和感がないというか、
        むしろそれが「普通」なのではないかな、と、私は思っているのですが、
        知っての通り、私の感覚は「ズレて」ますからね。
        
        アクセス後にイキナリゲームが動き始めたことで、
        「ぎゃあブラクラ!!」と110番通報するお友達が大量発生していたり、
        「ぎゃあウィルス!!」と地元の代議士に陳情に走ったりする人が大量発生していたり、
        という可能性が得意の霊能力で生々しく視えております。
        
        それだけならまだしも、それによって、
        「ツイッター上のURLは迂闊にクリックしてはならぬ!!!」
        という風潮をますます加速させてしまっている、
        という可能性も得意の霊能力で生々しく視えております。
        
        今ふと思ったのですが、「ブラクラ」って死語ですか?
        私のズレっぷりは、とどまるところを知りません。
        
        
        あと、ブラウザゲームであれば、
        今ちまたで大ブレイク中のスマートフォンでもプレイできるであろう、
        という慈悲深い配慮も込めております。
        
        世間ではPC所有者が絶滅し、スマホ所有者が地上の王者になりつつあるようで、
        特にツイッター上ではその傾向が強いように見受けられます。
        PCを持ってないわけではないのだけど、ツイッターを見るときはスマホ、という人類が少なからずいらっしゃる、
        ということを得意の霊能力で感知している次第です。
        
        あまり世間に迎合して「これからはスマホ対応だぜ! ヒャッハー!」みたいなことはしたくないのですけども、
        こと、ツイッターからの流入、ということを前提に考えるならば、
        自分が用意しているコンテンツのうち、入り口として、1つくらいはスマホでも触れられるものがあるといいのかな、
        というふうに考えた次第です。
        なので今後「スマホ対応のものをガンガン作ってくぜヒャッハー!」と考えているというわけではないのですが、
        さしあたり「入り口は一つ設けたぞヒャッハー!」という感じです。
        結局こうして語尾にヒャッハーをつけざるを得ないのも時代の流れというやつなのでしょう。
        
        入り口。
        例えば『愛と哀しみの』をお楽しみいただいた後、
        画面端のトピックパスから上位ページにもアクセスして、
        マインドルの存在にも気づいて欲しいなぁ〜、興味を持って欲しいなぁ〜、洗脳されて欲しいなぁ〜、
        という楽しい陰謀を張り巡らせている次第です。
        入り口1つでは足りないかな? なお、いくつあっても無駄という説もあり。
        さりあたりは様子見ですね。
        
        一応言っておくと、『愛と哀しみの』が単なる「撒き餌」というつもりでは決してないのですけども、
        やはりマインドルを見ることにつながって欲しい、という願いは常にあります。ええ、あります。
        「いかにして全人類の脳にマインドルを刷り込むか?」という陰謀を毎日365時間考え続けてます。
        
        陰謀はさておき、マインドルはイロイロな意味で「敷居が高い」だろうな、とは思うところでして、
        それよりは敷居が低い形で、ウチのコンテンツに興味を持ってもらうための
        手軽さを備えた「入り口」を設けておけば、必ずやいつの日か世界征服の礎となってくれることでしょう。
        陰謀は一日にして成らず。
        
        ちなみに、そこまでするのであれば、素直に「マインドル」をどこかの投稿サイトに登録してはどうなのか?
        という率直な疑問を全国のファンの皆様からテレパシーで受け取っているという妄想が絶賛沸き起こり中ですので、
        この場を借りてお答えしておこうと思います。
        
        確かにですね、おっしゃる通りでして、
        純粋に「一人でも多くの人に手に取ってもらえるよう、少しでも可能性を高めておく」
        という意味では、たとえ「どうせ埋もれてしまう」と分かっていても、登録だけでもしておくべきだろうとは思います。
        登録自体に金がかかるわけじゃなし、
        それこそ「手当たり次第に」でも登録しておく「べき」なのですよ、その意味では。
        実際、検討したことがないわけではありません。
        しかし、こと「マインドル」の場合、それではダメ、なのですよ、それでは。
        
        なぜか?
        
        ほとんどの投稿サイトで、当たり前のように
        「ランキング」「星の数で評価」「○○アワード」のようなフィーチャーがある。
        投稿サイト以外に「コンテスト」的なものも同様ですね。
        
        なんと言ったらいいのかな。
        多分どう言っても「批判がましく」なってしまうと思いますので、敢えて言葉を選ばずに言うのですが、
        
        『学園棋神伝マインドル』は「他人と優劣を競い合うための道具」として使うためのものではないのです。
        
        別に個人的に、世の中に存在するそういう活動を否定するつもりはほんの少ししかありませんし、
        そういう活動が好きな人同士でそういう活動を楽しんでいる分には、
        そこに向けて、敢えて何か「私の持論」なり「善し悪し」なりを語って聞かせてやろう、
        などという大それた意図はほんの少ししかないのですけども、
        ただ、『学園棋神伝マインドル』は「そのためのものではない」ということです。
        
        もちろん「世間に公表」している以上、
        受け取った人が、他のものと比較したり「点数」をつけたりしたとしても、それは「その人の自由」ではあります。
        ただ、私から「そういう目的のものですよ」という体裁で出すわけにはイカないのです。
        
        もちろん、そうした投稿サイトに登録している他の皆さんが、
        例外なく熱心に「他人と優劣を競い合う目的ぃぃぃ!!!」でそうしているのかと言えば、
        必ずしもそういうわけではないでしょう。
        特にこだわってないだけ、というお友達が大半であることは霊能力のある私には明瞭に認識できます。
        
        では私もそれでヨイのではないか、という思念が全国津々浦々から送信されてくるところですが、
        私は、そういうわけには参りません。
        
        そんなにこだわることなのかと言えば、そんなにこだわることなのですよ、それが。
        『学園棋神伝マインドル』の内容をある程度見ていただいたお友達には
        察していただける部分があるのではないかと思うのですが、
        「こういう内容」なのに、でも結局やっぱり、「他人と優劣を競い合うための道具」にしちゃうんだ?
        ということを他ならぬ私がしてしまっては、
        『学園棋神伝マインドル』に対する裏切りになってしまいますし、
        受け取っていただくお友達に対する裏切りにもなってしまいます。
        
        たとえて言うなら、
        「森林資源を守るために紙の使用を削減しよう」という内容の(紙の)本を出す、みたいな感じですかね。
        
        別にその点だけが中心テーマというわけでは必ずしもないのですけども、
        「マインドル」的には、そこは敏感にこだわっておきたい。
        そういうのも「込み」で『学園棋神伝マインドル』です。
        
        というわけで、
        「存在を知ってもらう機会が少ない!」という問題を抱え込むことになるわけですね。わぁいわぁい。
        が、結局それもまた「込み」で『学園棋神伝マインドル』ということなのかもしれません。
        
        せっかく同じ時代に生まれたのですから、
        ご縁のある方にはお見逃しのないようにしていただきたいという思いはあるのですが、
        「マインドル」の精神を損ねるような形でアウトリーチしようとしても
        「ご縁」からは遠ざかってしまうのではないかな。横文字が得意。
        ん?リーチアウトでしたっけ???横文字が得意。
        
        ただ、そもそも、「マインドル」に限らず、「する」か「しない」かは
        その人自身の意志のことですので、
        私としては可能な限り available な状態を保ちつつ、
        「他人事」として構えているしかないのでしょう。横文字が得意。
        死ぬ前には10年分ぐらいサーバー代とドメイン代を支払っておこう。
        
        
        ちなみに投稿サイトは大手以外にもイロイロありますし、
        探せば、中には「こだわりの条件」にマッチするところもあるのかもしれませんが、
        明確に「優劣を競うフィーチャーを否定」というポリシーを掲げているところはまずないでしょう。
        得意の霊能力にモノを言わせて簡単に感知しました。
        現時点ではそうしたフィーチャーがないとしても、技術的に可能なら実装したいと思ってたりすることでしょう。
        この私の霊能力を侮ってもらっては困ります。
        
        さらに言えば、私の「こだわりの条件」を運営者側に押し付けるわけにもいきませんし、
        結局、自分のホームページやSNSに載せるにとどめておくのが最善かなと思っております。
        あと、駅前で街頭演説もしたいところですが、
        昨今のコロナウィルスの影響を考慮し、残念ながら自粛することとします。いやぁ残念だなぁ〜。
        
        なお、これは決して、個々の投稿サイトの運営方針を批判するつもりで言っているのではなく、
        「世間の風潮」として、なんか、そういう感じがあるよね、って話です。
        
        現在の世間の風潮として、「そういうのが当たり前」になってます。
        「そういう中」で「"他者を出し抜い" て "評価" を得ることこそが "意味のあること" である」
        というストーリーに染め抜かれている。
        「ゲ制」に限らず、どこでも同じです。
        そうしたことを「疑問に感じる」ということすら、ほとんどの人はしないでしょう。
        一時的に少しばかり疑問を感じることがあったとしても、特に掘り下げることはせず、
        せいぜい「いっときの愚痴」程度の認識ですぐに忘れてしまうことでしょう。
        なぜ忘れるかと言えば、1つには、つかんでおくための認識のフレームを持たないからであり、
        もう1つには、○○○○○○○○だからです。(←念のため伏せ字にしました。霊能力で読んでください)
        空気のような存在であり、あまりに「当たり前」すぎて、「見えなく」なっている。
        しかし一度「見えて」しまうと、もはや無視はできない。
        
        おっと、ついつい「批判がましく」なりかけました。
        繰り返しになりますが、別に「そういうの」が「好きでやってる」人たちを批判するつもりはほんの少ししかないのですよ。
        個人的にあまり好きな風潮ではないのは事実で、ついつい言葉が悪くなってしまいますが、
        他の人の行動に注文をつけたいわけではない。
        ただちょっと、もしも、当たり前すぎて見えなくなっているのだとしたら、
        一度「気がついて」みてもいいのではないか、とは思わないでもない。
        
        さらに言い添えておけば、
        現在の世の中に身を置いて生きる以上、こうした風潮から完全に距離を置いて「潔癖」を貫くというのも、
        あまり現実的なことではないとも思います。
        どこかで自分なりに折り合いをつけていくしかない。
        ただ、「見えて」いる以上、「影響をコントロール」できる道を模索したいとは思うところです。
        
        
        
        で、それと少々関連することなのですが、
        私はもう「戦うゲーム」は作らないでおこうと思ってます。
        
        どこから話そうかな。
        
        少し話は飛ぶのですが、先日ですね、少々、ショック、というと大げさですが、
        「ああ、やっぱりそうなっちゃうんだ」と残念に(私が勝手に)思った事例があります。
        
        タイトルは失念しましたが、たしか何かの二次創作だとかで、
        「うどんを届けるゲーム」というのを見かけたのですよ。
        内容としては、ボタンを押すと自機から「うどんが入った丼」が「発射」されて、
        それをターゲットに当てると「届けた」ことになる、というものです。
        
        ゲーム性としてはシューティングということになるのですかね。
        フレーバーは「うどんを届ける」ということで、これは「戦い」ではないように見えます。
        
        が、「届けた=ターゲットに当たった」ときのエフェクトが「爆発」なのですよ。
        ズガーンと爆発して、丼ともどもターゲットが消滅する。
        こうなってしまうと、もうすっかり「弾を発射」して「敵」を「攻撃」するシューティングです。
        せっかく「戦い」ではないフレーバーなのに、結局こうなっちゃうのか、と。
        
        一応言っておくと、別にそういう(一般的な)シューティングが「悪い」と言ってるわけではないのですよ?
        ここで言いたいのは「うどんを届けるゲーム」であっても「戦い」の表現が選ばれている、
        という事実への着目、です。
        
        たとえばですが、これを「おいしいうどんを届けてもらって喜んでいる表現」にすることもできたはずです。
        でも、そういう表現は選ばれなかった。
        
        いや別に、その作者様には「そういうこだわり」があったわけでは多分ないのでしょうし、
        私が勝手に期待して勝手に残念がっただけなのではありますけれども。
        
        もちろん、これはあくまで一つの事例にすぎず、
        作者様の意図はわかりませんし、私はその二次創作の元ネタも知らないので、
        もしかすると「爆発」でなければならない理由が何かあったのかもしれないですね。
        
        ただ、ゲームの全般的な傾向として、
        「戦い」の表現に傾きがちという面はあるように思います。
        
        というよりむしろ、何か「戦う」要素を実装することで「ゲームを作った」ことになる、という
        これまた「空気のような風潮」がある。
        
        たとえば、何かゲーム制作講座のようなもののサンプルを想像してみてください。
        
        画面の中にドット絵のキャラクターを表示しました。
        キーボードの矢印キーを押すと移動するようにプログラムを追加しました。
        こいつ……動くぞ!
        うおおおお、なんか楽しいいいい!!
        でも、これだけでは「ゲーム」になってない。
        じゃあ「足りないもの」は何だろう?
        
        で、多分、その講座の次の章では、
        「敵」を表示するのですよ。
        
        じゃあ次は?
        「接触するとダメージ」の実装ですかね。
        
        じゃあ次は?
        「スペースキーを押すと弾を発射」ですかね。
        
        すると次はもちろん、
        「弾が当たったら」「敵」が「死ぬ」機能を実装することになるでしょう。
        
        次は
        「敵」を「殺した回数」をカウントして、「点数」を表示、でしょうか。
        
        はい。
        俄然「ゲームらしく」なって参りました。
        
        
        結局「"何かと戦う" 機能をコンピューター上に実現すること」=「ゲームを作ること」
        ということになっているようなフシがある。
        
        これはいわゆる「暴力表現」であるとか「流血表現」であるとかいうことではなく、
        見た目が「ほのぼの」とした「かわいい」系のものであっても同じことで、
        結局どこかに「互いに相容れない目的を有した」「敵」がいて
        「相手の目的を妨害しつつ」「自分の目的を達する」という内部構造になっている、
        あるいはその結果を他者と競い合うような形式になっている、ということです。
        もちろん「対戦型」になっていれば、「見た目」に関係なく明らかに「戦い」ですね。
        
        「R指定」というのがありますけど、あれはどちらかといえば「見た目」の問題ですよね。
        ここで申し上げているのは、そういうことではなく、もっと構造的な話です。
        
        で、さて「ゲームが戦い」であることの何がイケナイのかということですが……
        別に何もイケナイとは思いません。そのこと自体は。
        
        ただ、これも投稿サイトのランキングやコンテスト的なことが空気のような存在になっているのと同様、
        「ゲーム=戦う」ということが何の疑いもない当たり前のことのようになっているのは気になるところです。
        
        別に、現実と仮想の区別がどうのこうの、などと言いたいわけではないのですけども、
        そういう「敵」と「戦う」だとか「攻撃する」とか「倒す」とかいうことが
        「面白いこと・楽しいこと」なのだ、と、無条件・無意識に思い込まされてはいないか?
        だとすれば、それはちょっと、一度立ち止まって考えてみてもいいのではないか?
        
        私やあなたは、本当のところ、何を願って生きている人間なのか?
        
        誰かと優劣を比べ合うだとか、何かを「敵」にして「攻撃」したりされたりする、
        ということが、本当に「楽しいこと」なのか?
        
        「ゲーム」というものを通して、「現実の社会では許されない行為」を「娯楽なのだ」と提供される。
        そういうことが「快感なのだ」と思わされている。
        そういうことが「おまえらの本性なのだ」と思わされている。
        
        「ほらみろ、"快感" だろう? 
          せいぜい仮想世界で "発散" するがいい。
          おまえは "そういうやつ" なんだ。
          だから現実世界では、様々な決まりごとで縛ってやらないと何をしでかすか分かったもんじゃない。
          安心しろ、おまえだけじゃない。
          どいつもこいつも同じだ。
          人間ってのはそういうドウシヨウモナイやつらなんだ。思い知るがいい!」
        
        「人間という存在」に対する「信頼」を貶めようとする「底知れない悪意の声」が聴こえてきます。
        え? 私の妄想ですか? いーえ、霊能力です。どうだ参ったか。参ったと言え。
        
        はい、
        ほんの少しばかりキチガイじみた言い方をしてしまったかもしれませんが、
        私ほどの霊能力者になるとですね、イロイロと聴こえてしまうものなのですよ。ふぅ、やれやれ。
        私の悪口を言うのは誰だ! ぜぇはぁ。
        
        ただ実際問題、ゲームが必ず「戦い」でなければならないという決まりなどは存在しないわけで、
        せっかく個人制作という自由な立場で作るのですから、
        あまり他の人が掘り下げてない領域を狙ってもいいのではないかなとは思うところです。
        (↑マトモっぽい言い方をしてみた。私の悪口を以下略!)
        
        念のため申し添えておくと、別に「戦い」のゲームが悪いと言うつもりはないのですよ?
        作るのも、プレイするのも、それ自体が、何か悪いことだと言うつもりはないのですよ?
        あくまで「ゲーム」でございます。
        実際私も、常日頃から「戦い」のゲームを楽しませていただいております。
        
        「戦い」にはある種の「面白さ」があるというのは事実です。
        多くのゲームが「戦い」の表現になっているというのも必然的なことでしょう。
        
        ただ、無条件・無意識に「戦い」に(を)「しちゃってる」のだとすれば、
        そこはちょっと意識的に選べるようにはなっておきたいな、と私は思う次第でございます。
        ごはん食べるとき毎回何の疑問もなくマヨネーズを塗ってたけど、
        別にマヨネーズをつけないとごはん食べちゃダメって決まりがあるわけじゃないよね? という感じです。
        え? ごはんにマヨネーズなんてつけたことない? 私の悪口を以下略!!!
        
        というか、脱マヨならば可能かもしれませんが、
        厳密に「戦い」の要素を避けようなどと思うと、ほぼ不可能なような気はします。
        今回の『愛と哀しみの』は「戦いではない内容」として作ったつもりではありますが、
        「生命を消滅させる」などと言ってるわけで、
        考えようによっては「攻撃的」ではあります。
        え? 考えようによらなくてもそうだって? 私の悪口を以下略!!!
        
        
        世の人々が「戦い」のゲームを作ることを批判するつもりでは全くない、と、あらためて申し上げた上で、
        もう少々余談を続けさせていただくと、
        私としては、「戦うゲーム」はもうこれで最後にしよう、と、マインドルのときから思っておりました。
        
        ちなみにあれ、もともとは「対戦型ボードゲームにストーリーモードをつける」という企画でして、
        そのボードゲームはチェスにするつもりでした。
        主眼はストーリーなので、ボードゲームは無理に自作するより、
        既にゲームとして確立されているものを拝借する方が安全ですし、
        何ならAIも自作しなくて済むかもしれず、そこは「楽をしておく」つもりだったのですよ。
        ただ、ストーリー的に、(その)ゲーム(で勝ち負けを争うこと)を批判するような内容があったりするので、
        題材に既存のゲームを借用すると、そのゲームが好きな人たちに嫌な思いをさせてしまうのではないか?
        と、お馴染みの慈悲深さを発揮し、
        艱難辛苦の果てに独自のボードゲームをAI含めて用意したという、聞くも涙、語るも涙の裏話。
        結果的には、あの形になったのはベストだと思ってますけどね。
        
        えーっと、何の話でしたっけ。
        話がまとまらなくなって参りました。
        つまり「マインドル」の時点から、「戦い」ということを相対化していこう的な考えはあった、という話です。
        
        
        ただ、正直、難しいですね。「戦いじゃない」という縛りでゲームを作るのは。
        いろいろ考えた末に、今回の『愛と哀しみの』はああいう形になったわけですが、
        何かと戦っているわけではないとは言え、
        それでも上述の通り、厳密に言えば「戦い」的な要素を完全に排除できているとは言い切れないですね。
        「生命を消滅」もそうですが、そもそも、「なんらかの課題を解く」という時点で
        結果が「成功/不成功」に分離するわけで、それは結局「勝ち負け」の相似形です。
        
        一応、こだわったところとしては、
        結果をランキング的に「記録」する機能は敢えてつけなかったことです。
        また、結果を表す数値を2種類にすることで、単純な比較がしにくいようにしてあります。
        さらに言えば、いわゆる「スコア」とは違って、
        あれらの数字の「多さ/少なさ」と「善し悪し」を単純に結びつけることはしにくいのではないかと思われます。
        
        それから結果をツイッターに投稿する機能をつけてありますが、
        単に「クリアできた/できなかった」という意味づけではなく、
        「クリア」したとき・しなかったとき・「投了」したとき、それぞれの文言を、
        単純には「善し悪し」の「上下的な価値」を比較判定しにくいものにしたつもりです。
        それぞれが「選択の結果」です。
        
        ただ、どうしたって結局、純粋に「読むだけ」のノベルでもない限り、
        何らかの「チャレンジ」に対する「勝負」という要素は排除しきれるものではありませんね。
        
        その点を細かく追求するとキリがないというのも最初から分かっていたことではあります。
        純粋に厳格にこだわるなら、起動すると真っ白な画面が表示されて、
        ただひたすら座って何もせずに眺めるだけの涅槃アプリにするしかありません。
        「正解」はそれです。うん、知ってた。
        
        それを百も承知の上で、「無」ではなく「有」の側で、生きる。
        「正解」ではない。
        「間違っている」ことを承知の上で、「間違い」を生き抜く。
        「生まれてしまったのに死んでない私(たち)のリアル」はそこにこそあるはずです。
        「間違い」は「間違い」以外の何ものでもないとしても、
        「間違わないこと」が「本当の願い事」というわけではないでしょう。
        やるべきことはある。
        
        何を言ってるかわからなくなって参りました。
        あ、別に「戦い」が「間違い」だと言ってるわけじゃないですよ? 口が酸っぱい。
        
        他にも案はイロイロあります。
        「これからじゃんじゃん作ってくぜヒャッハー!」というほどの元気はありませんが、
        何か作るとすれば、「戦わないゲームシリーズ」として作っていこうかなと思っております。
        
        さしあたり次もまた、あまり規模が大きくないものを出して、
        その次に、やや大きめで、なおかつ、
        「戦いではない」ことを、私が言わなきゃ誰も気付かないレベルではなく、
        より明確に打ち出したものを考えております。
        今後のことは分かりませんが、その2つは作っておきたいかな。死ぬ前に。
        
        
        さて、今日はなんだかイロイロと批判くさいことを書いてしまいました。
        別に他の皆さんの活動に物申そうなどという意図は全くないのですけども、
        ……いや、ほんのちょっぴりはあるかな?
        あるとすれば、個人的に誰と誰と誰が、ということではなく、世間一般の風潮に対して、ということです。
        「誰かが悪い」だとか「何かをヤメろ」などと言いたいわけではありません。
        そういう中で、私は、これからどういう行動を選んでいこうと思っているか、という話です。
        言葉には気をつけたつもりですが、気分を悪くさせてしまってましたら、ごめんなさい。
        
        「ごめんなさい」と言いつつ、さりげなく「善人アピール」をしているようで卑怯くさいので、
        ここで何か1つ、悪人アピールをしておくべきですね。
        存分にこの私を憎んでいただけるよう、ご用意をしておかねばなりません。
        
        どうしようかな。何か一つ、品のないことを申し上げておこう。
        何かないかな? うんこ。
        いや、そんな投げやりな。
        うんこを投げやる。

        何かもっと陰湿なやつを。
        湿ったうんこ以外で。
        えーっと。

        よし、1つ思いつきました。なかなかの陰湿っぷり。
        これでどうだ。
        と、思ったんですけど、言えない。ぐぎぎぎ。
        いや、そこを何とか。
        えーい、ままよ。
        ○○○○○は○○○○○○○ね!!!!!!!!
        
        ぜーばーぜーはー。
        やはり私では根っからの善人すぎて、汚い言葉には宇宙パワーで伏せ字がかかってしまいます。
        霊能力を駆使して読み取ってください。
        
        
        ではまた、生きていたらお会いしましょう。
        今日もあなたが○○○○○○○○○○○に。(あっ!)