TOP > その他 > 自殺を扱うサブカル作品ネタバレ感想集 > 『自殺島』
自殺を扱うサブカル作品ネタバレ感想

自殺を扱うサブカル作品ネタバレ感想

『自殺島』

【媒体】マンガ

今回はマンガ『自殺島』です。
以前からタイトルで気になってましたが、嫌な予感がしてリアルタイムでは読んでませんでした。 で、今回読んでみた感想としては、大体予感通りだったとは申し上げておきます。

本作は約8年にもわたって商業誌で連載された全17巻という非常に分量の多い大作です。 商業作品としてこれだけ巻数を重ねたということは、一定以上の人気があったものと思われます。 実際、以前ゲオの貸本コーナーの人気順の棚で上位の位置に並べられているのを見かけたことがあります。 だからこそ「嫌な予感」がしていたわけです。 「自殺」という一般的にはネガティブな印象を与える単語をタイトルに掲げつつ人気を博した。 これはどういうことか? ある程度お察しできるところではあります。

「自殺」を扱うサブカル作品にありがちなパターンというものがあります。 たとえば自殺を何かおどろおどろしい猟奇的な事件の一種としてエンタメのネタにする、というパターン。 あるいは自殺を図る人物を精神的に弱い人間として描き、お説教のネタにする、というパターン。 本作はどうかと言えば、見事に後者のお説教系に該当します。

大まかに言えば現代人が無人島に流されてサバイバルをするという娯楽マンガであり、 純粋に漂流記モノとして楽しめる内容ではあります。 文明から隔絶された環境に突然放り込まれる戸惑い。 自然の美しさと厳しさを体感しながら仲間たちと協力して如何に生き延びるか? 閉鎖空間での友情、対立、そして恋愛。 随所にサバイバルの薀蓄が掲載されており、真実味のある描写は読みごたえ抜群です。

しかし、とにかく説教くさい。 マンガの表紙付近などに書かれている紹介文を読めば分かると思いますが、 自殺志願者は社会の邪魔になるから無人島に追放してしまえ、というところから始まる「漂流記」です。 「自殺を図る者=精神的に弱く道徳的にも間違った人間」という発想が通底しており、 そうした人物をサバイバルを通して更生させる、という露骨な意図を感じずにはいられません。

先述の通り、漂流記モノとしては非常に「面白く」読める内容です。 「自殺=悪」というのは大方の社会通念には沿ったことであり、 その点に違和感を持たない人にとっては、 うまい具合にスパイスの効いた大変おいしく読める長編マンガではないかと思われます。 商業誌で長期連載されていたことも頷けるというものです。

しかしそうした「自殺」に対するスタンスに違和感を覚える読者にとっては まさに「読むに耐えない」ものと思われます。 なにしろ冒頭からイキナリ自殺志願者は国の厄介者だというバッシングから始まりますからね。 いや、むしろ冒頭にそうした攻撃的とすら言える批判的なメッセージを入れておくのは、 「この漫画はそういう趣旨のものなのだから苦手な人は読まないように」 という親切心による警告だったりするのでしょうか? だとすれば、わざわざ最後まで読んでしまった私は、 たとえて言うならエロが苦手なのにわざわざエロ漫画を読んで立腹しているような野暮な存在かもしれませんね。

商業作品である以上、あまり社会通念に反した内容を描くことはできないという都合はあるでしょう。 その点を差し引いた上で最後まで目を通してみた次第ですが、 やはり最後まで一貫してスタンスが揺らぐことはなかったことを報告しておきます。 (特に終盤は "総仕上げ" とも言える露骨な内容でした)

もちろん漫画など好きに描けばよく、読みたい人だけが読めばいいのであって、 読みたくない人は読む必要は1ミリもありません。 その意味で、序盤で方向性が明確化されているのは親切設計とは言えますね。

とりあえずまとめると、 いわゆる一般的な社会通念で言うところの「自殺=悪」という考え方に対して 違和感をまったく感じない人にとっては純粋に楽しめるものと思われます。

一方、

「苦しい思いをしてまで生き永らえたいとは思わない」
「死にたくなるほど追い詰められるのは社会の側にも原因がある」
「いずれ必ず死ぬのに生き続けることに意味があるとは思えない」
「生きたいか死にたいかは人によって違うのだから個人の意志を尊重されるべきだ」
「たとえ死を望んでいても死の恐怖や苦しみが消えるわけではなく、生まれてしまったこと自体がうらめしい」
「親の都合で生まれさせられたのに、感謝を強要されるのは理不尽だ」
「子供本人に同意が取れるわけではないのに勝手に子供を生み出し、生きることを強要するのは不道徳だ」

などなど、列挙すればキリはなく、細部に賛否はあるとは思われますが、 「生」を無批判に良しとする価値観が疑問に思えるという (私に言わせれば当然の)感覚をお持ちの方にはまったくオススメできない内容です。 随所に「考えさせる」ような要素もあり、真面目に読んじゃうお友達もいらっしゃるかもしれませんが、 無理に読む必要はまったくないと思われます。

以下、ネタバレ満載で感想をお届けいたします。 純粋に楽しんで読む予定の方はお気をつけください。 頑張って読んでしまった後、腑に落ちない思いを抱えている方や、 漫画自体を実際に読む気にはなれないけどタイトルで気になっていたという方の参考情報となれば幸いです。

■ あらすじ(ネタバレ)

「自殺島」と呼ばれる特別自治区の孤島がある。 自殺未遂を繰り返す者は「生きる義務」を放棄したことにより 国民としての資格を剥奪され、その島へ追放される。

主人公のセイもその一人。 社会に馴染めず、将来への希望が持てず、 自殺未遂を繰り返した挙句、「自殺島」へと放逐されてしまった。

文明から隔絶された環境へ突然放り出され絶望するも、 同時に島へ流された仲間たちと協力し、サバイバルをしながら生き延びていく。 共同生活や狩猟を通し、仲間と助け合って生きていく喜びや自然の摂理を体感。 セイは次第に生きる意志を取り戻していく。

自殺未遂をするに至った経緯は人それぞれ。 他のメンバーは必ずしもセイと同じように生きることに前向きになるわけではなかった。 それでも大半のメンバーは仲間との共同生活や狩りを通して自然の摂理に触れることで、 それぞれに心境が変化し、島での生活に希望を持つようになっていく。 しかしセイの親友だったカイはセイとは相反する思想を持つようになり、 他のメンバーに対して自殺幇助を繰り返すようになる。 事態を重く見たセイたちは、カイをグループから追放するのだった。

セイたちは自然の中で喜びを感じながら穏やかに生活を続ける。 だが平穏は続かない。 島にはセイたちの他にもグループが存在する。 そのグループのリーダーであるサワダは好戦的な人物。 セイたちのグループとの間に対立が生じる。 しかし元薬物中毒者のサワダは「刺激」を求めており、和解に応じようとはしない。 殺さなければ殺される。生きるためには殺さなければならない。 対立は次第に激化し、全面戦争となる。 以前グループから追放したカイがサワダの参謀となっており、争いは熾烈を極めた。 互いに多くの犠牲を出した末、ついにセイたちはサワダを死に追い込み、戦いは決着を見る。 両グループの間で争いを繰り返さないための取り決めが交わされ、ようやく平穏が訪れた。

その後、出産や結婚といったイベントもあり、島で平穏な生活が根付いていくかに見えた。 だが、監禁していたカイが脱走し、グループのリーダー格の人物を殺害。 さらにセイの恋人を人質に取って山に逃げ込む。 カイの要求はセイの命。 中心人物であるセイを殺すことでグループを崩壊させ、さらには島の人間を皆殺しにしようとしていたのだ。 すべての命を否定し、その後、自分も死を選ぼう。 自分の思想を貫徹しようとするカイにセイが立ち向かう。 愛する人を守るため、元親友のカイを、セイは島の生活で身につけた弓矢の技で射殺するのだった。

その後、島に本土から船が到着。 政府が政策を見直し、「自殺島」が「開放」されたことが告げられる。 しかしセイたちは島での生活を続けることを選ぶのだった。

■ このマンガでの「自殺せずに生きる理由」のロジックまとめ

いわゆる「自殺問題」全般について、本作での見解をまとめると、 おおよそ次のようになるものと思われます。

生きることは義務

大前提。疑いが向けられることはなく、この上にすべてが展開される。

自殺してはいけない理由

母親が出産のときに苦労したから。 および、先祖代々そのようにして種が続いてきたから。

死のうと思ってもなかなか死ねない理由

本当は死ぬ気はなく、人生から「逃げ」ているだけだから。

死なないでおこうと思う理由

愛する人がいて、自分の命は相手のものでもあると思っているから。

生きていることが「喜び」だと思う理由

生きること自体を目的にすれば悩みがなくなる。「理由」など考えてはならない。 現代社会で「死にたく」なるのは「目的」や「理由」にこだわるあまり、 「喜びを感じる能力」が衰えているから。

他の生き物を殺して利用してもいい理由

他の生き物の命を「奪って」いるのではなく「受け取って」いるから。感謝すればよい。 動物の肉を食べるのは「おいしい」からではなく、(命の輪に参加するのが?)「満足」だから。 生態系を守るには「捕食者」が必要だから。 また、命を「受け取った」のだから生きなければならない、ということにもなる模様。

他の人間と争って殺してもいい理由

愛する人を守るためならよい。 殺すこと自体が目的ではなく、生きることが目的ならよい。

 

作中で明確に述べられているものもあれば、 明確に述べられているわけではないけれどストーリーを読み解くと どうやらそういうことになりそうだ、というものもあります。 解釈には個人差があるとは思いますが、敢えて細かな言葉尻にはこだわらずに単刀直入に書き出しました。

こうして身も蓋もなく列挙すると、控えめに言って「賛否が分かれ」そうなものも散見されます。 しかし実際のマンガの中ではどれも情緒豊かな筆致で感動的に描かれており、 反対することが許されないかのような空気感が迫ってきます。 内容への賛否はさておき、マンガとしての「表現力」には頭が下がるばかりです。

何でも理屈で捉えればいいというものではないというのは百も承知ながら、 雰囲気に流されていたのでは見えなくなるものもある、とは言っておきたいと思います。

■ 自分の意志で死を選ぼうとする者へ敬意が払われることはない

見せしめ

さまざまな自殺未遂者が登場します。 というか話の舞台はずっと「島」であり、「自殺未遂者が島に送られる」という設定上、 登場人物のほぼ全員が自殺未遂者ということになります。

それぞれに事情や経緯は異なるようですが、 ストーリー全体の大前提として「自殺=悪いこと」という一点が揺らぐことはありません。 冒頭に出てくる政府からの告知のとおり、 「生きること」は「放棄が許されない義務」ということになっており、 どこまでも「生=正」が疑われることはなく、 「死のうとする=生きようとしない=逃げ」ということになり、 自分の意志で死を選ぼうとするということに対し、 その選択や心情に敬意が払われることはありません。

そもそも、自殺島に送られているということは、一度は自殺を図ったわけです。 主人公のセイの場合はどうやらリストカットとオーバードーズを実行した模様。 そこを病院に担ぎ込まれ、意識が朦朧としている状態で 何かの契約書にサインをさせられ、島に連れて来られた。 その契約書に何が書いてあったのか作中で明確に表示されることはありませんが、 自殺島に送られることが本人の意志に反したことだったのは明らかです。

つまり、死にたいなら日本社会の外で勝手に死んでくれ、ということのようです。 実際、島に送られた直後に高所からの投身自殺を実行する者が続出しています。

しかしそうした死に方は本人たちの望んだ死に方ではないものと思われます。 自殺島に送られてくる者は全員その時点では骨折などの怪我がない状態です。 身体的な障害を負った人物もいないようです。 皆それぞれに「自殺未遂の常習者」ということであり、 セイを含めて手首にリストカットの傷跡があるキャラは何人もおります。 個々の具体的な自殺方法は必ずしも明確ではありませんが、 高所からの身投げという方法を「常習」していたならば身体に障害が残らないとは考えにくい。

そういう人々を、死ぬ方法を選べないような環境へ強制的に送り込んでいる。 で、案の定、高所から飛び降りてもすぐには死ねず、 手足が折れ曲がって血まみれになりながら苦しんで死ぬ様子や、 それを見て主人公たちが恐怖におののく様子が描かれます。

いかにも「見せしめ」という感じがいたします。

死ぬなら勝手にしろ。せいぜい苦しんで死ね。 ほら見ろ、これでも死ねるか? これがおまえが「望んだこと」なんだぜ? それとも怖くなったか? どうせ「死にたい」なんて嘘なんだろ? 迷惑なやつらめ。せいぜいそこで後悔しろ!

明確にそのような文章が掲載されているわけではありませんが、 そこで表現されているのは、つまるところ、そういうメッセージのように思われます。

結局、「離脱」を望む人間に、そういう態度で応じるような世の中だったわけです。 さぞかし息苦しい世の中だったであろうことは想像に難くありません。 しかしそのような仕打ちをする政府に対して反逆をするようなストーリー展開が出てくることはありません。 どこまでも「悪いのは自殺しようとする側」というスタンスは揺らぎません。

「反対意見」を言う人物の扱いがヒドい

主人公の元親友のカイは作中で唯一「死」を肯定する思想を持つ人物であり、 本作の言わばラスボスを務めるキャラクターなのですが、 このキャラクターの作中での扱いが非常に悪い。

たとえば、 「人間がいない方が地球にとって良い」 「死にたい者が死ぬのを手助けする」 といった思想を語っており、 言説を見る限りではそれなりに一理あると思わせるものがあります。

しかしその本心は、 他のメンバーたちが島の生活を通して生きる意志を獲得して前向きになっていく様子に嫉妬し、 自分の意見が認められないのが悔しくて屁理屈をこじらせているだけ、という設定になっており、 卑劣に立ち回る小悪党として描かれてしまっています。

そのため、言っていることに説得力がありません。 と言うより説得力を感じさせないような描き方になっている。 せっかく興味深い思想を語っているのに、それを正面から掘り下げることはせず、 単に主人公たちが羨ましいから捻くれて言っているだけというふうに矮小化されてしまっています。 そればかりか殺人を何とも思わない冷血な人間のようにも描かれています。 ここまで来ると、自殺を考える人間への誤解を招きかねないのではないかと心配になります。

カイをもっと誇り高い崇高な人物として描くこともできたはずですが、そうはなっていません。 なお、カイという人物が実はただの小悪党だったのだとしても、 語られた思想自体が間違っていたということになるわけではありません。 しかし本作の中ではそうした「死」を選ぶことに肯定的な考えを持つ人間が それなりに尊重されるべき存在としては扱われないということです。 これもまた一種の「見せしめ」ですね。

ここでカイの言動を一つ一つ取り上げて擁護したくなりましたが、 結局それらの言動の裏にある動機が小悪党的な嫉妬心や自己顕示欲「という扱い」になってしまっている以上、 つまりは「話を聞く耳を持たない」ということであり、何を言っても意味はなさそうです。 「羨ましいから怒ってるだけなんだろ? ダッサ〜」としか受け取られない空間で対話をすることは不可能です。

ただ、そのカイに最終巻で唐突にメタ発言をさせていることには注目したい。

「平凡な彼(セイ)が生きる力を取り戻す。その物語に自分を重ねて皆が同調していった。 誰も彼もこの単純な物語の主人公になったつもりだ……バカバカしい!」

「バナナを収穫して魚を獲って鹿さえも獲って!! 生きる力を取り戻しました、もう大丈夫です……だって!? そんなおかしな話があるか。バカバカしい!」

推測ですが製作サイドでもストーリーの不完全さを把握していたか、 あるいは本作への不評(アンチ)が存在することを認識していたのではないでしょうか。 そして、そうした反対意見をカイのような「小悪党」の言い分に過ぎないと作中で表現し、 最終巻で「片付け」てしまった。

主人公サイドと敵対する思想の人物を「カッコ悪く」描くことで存在を貶め、 その思想と直接的に対峙することを避ける。 一種のストーリーテリングの技術と言えるでしょう。

メインキャラクターは誰も自殺しない

作中でメインキャラクターの中からは自殺する人物が出てきません。 ストーリー全体を通して自殺者が出る様子はしばしば描かれるのですが、名もなきモブキャラばかりです。 主人公と交流を持つ主要キャラクターの中からは誰一人、自殺する人物は出ません。 これだけ多数の元自殺志願者(という設定の人物)が登場しているにもかかわらず、これはなかなか意外なことです。 顔と名前と自分の意志を備えた個人が、その意志で死を選んでこの世を去る、というエピソードが登場しない。

おそらくですが、そうした展開を描いてしまうと、死を選んだ本人を無下に否定するわけにもいかず、 かと言って死を選ぶに至った本人の考え方を肯定するような描き方も避けたかったのではないかと想像します。 これもまたストーリーテリングの技術が駆使されたところなのかもしれません。

つまるところ、「自分の意志で死を選ぶ」という個人の選択が尊重されないということです。 そんな人間のために割くページはないというわけです。 そもそもマンガの設定からして「自殺志願者は迷惑な存在だから島流し」という 身も蓋もないものだったことが偲ばれるところではあります。

自殺したキャラクターとして強いて例外を挙げれば、主人公の回想シーンに登場する英子先輩でしょうか。 しかしあまり詳細に描かれることはなく、中盤以降は英子先輩の存在自体が有耶無耶になってしまっております。 終盤に出てくる出産イベントで主人公たちは「命のバトン」を受け継いでいるのだから死んではいけない、 という「答え」を手に入れて感涙にむせび泣きますが、 それに従うと、英子先輩も批判されてしまうということなのでしょうか? 序盤では主人公が心の中で英子先輩と対話するような場面もあり、なかなかのキーパーソンという感じがしましたが、 主人公は島で出会って恋人となるリヴに英子先輩の面影を重ねていたところがありますので、 英子先輩の話は徐々にリヴの話にすり代わっていくのであり、有耶無耶になるのはむしろ計算どおりなのかもしれません。 つまりリヴを生かしたのだから、英子先輩も生かしたことになる。 無心に読む限りは、そういう印象を受けます。 これまたストーリー回しのうまさが光りますね。

「自殺=逃げ」という発想

登場人物たち全般に共通して、 島に来る以前の自殺を考えていた自分の言動が「"前向き" になれていない」「逃げ」であった、 とする自己卑下的なセリフを言わせています。 数多くの自殺未遂者が登場し、「逃げ」という否定的な解釈が妥当かどうかは個別に判断が分かれそうですが、 そういう解釈が成立しやすいようなキャラ設定・シチュエーションに偏っている気はいたします。

しかし、目立った場所に例外がある。 主人公の恋人となるリヴです。 リヴは性的虐待の被害者であり、それによる精神的苦痛で自殺を図ったという設定です。 このキャラクターに注目すると、自殺と言っても一概に本人が悪いとは言えないのではないか? と、いうことになってしまいそうです。 なのですが、主人公の愛の力で心の傷を回復していくラブストーリーが感動的に描かれており、 これまた無心に読む限りでは、そういう「野暮なツッコミ」をする気になれない。 実に「うまい」ストーリー回しと言わざるを得ません。

リヴも他のキャラ同様、「逃避」系のバックストーリーを持つ設定にしてはダメだったのでしょうか? おそらくですが、それではすぐに主人公と結ばれてしまって 話の盛り上がりに欠けるということだったのではないか? 少し系統が異なる設定にしておくことで、意志の疎通が難しい「謎の美少女」という立ち位置を保ちつつ、 ストーリーの緊張感を後半まで引っ張ることができる。 また、異性との性的な接触に心理的な抵抗があるため、簡単には主人公と結ばれない。 物語後編まで時間をかけて心理的な距離を縮め、大きな愛の力で心の傷を回復し、 2人で生きていくことを誓い合う熱いラブストーリーが展開される。 こうして見ると、やはり「うまい」ですね。

などなど、大規模なストーリーの中に大小様々な潜在的綻びを抱えつつも、巧みなストーリー回しによって、 自分から死を選択するという人物や考え方に対する否定のトーンが全編を通して一貫しており、 そのトーンを緩めなければならなくなりそうな脇道には深く立ち入らない構成になっています。

島で「生きる意志」を獲得したセイですが、果たして現代社会に戻って馴染めるのでしょうか? しかし本作ではそこまでは描かれません。 最終巻では後日談のような形で、島に残って生活を続けている様子が描かれます。 結局、現代社会から「逃げ」た状態であるという点は相変わらずなのではないのか。 どこか「逃げ」というフレーズを恣意的に使い分けているように見えてしまいます。

■ 主人公の「自殺問題」解決法と、その他のキャラとのギャップ

主人公であるセイの自殺理由は不明瞭

前述のとおり、様々な人物が登場し、島に送られてくる経緯=自殺未遂の動機や経緯もそれぞれです。 全体的に主人公・セイのケースが中心になるのは主人公である以上は当然と言えば当然ではありますが、 セイのケースを他のキャラに敷衍していく(orしていかない)さまが少々強引に見えなくもありません。

主人公であるセイがなぜ自殺未遂をするに至ったのか、 作中では過去編として断片的に描かれるのみであり、詳細は不明です。 ただ、元来あまり積極的に他人の輪に加わろうとはしない性格であったことや、 両親から将来の進路について問い詰められていたことがストレスとなっていたことが描かれます。 また、学校で親しくしてくれていた人物が自殺したというエピソードも登場します(英子先輩)。 そのこととセイ自身が自殺志願者となったこととの因果関係は明らかではありませんが、 「死」ということを一つの選択肢として強く意識するようになるキッカケではあったのだろうと思われます。

他のキャラクターの自殺理由は割と具体的

一方、他の登場人物は「死」を選んだ理由が比較的明確です。 例えば経済的な理由であったり、恋人を事故で亡くしたことであったり、 性的虐待を受けて精神的に苦しんでいたことであったり、薬物依存に苦しんでいたことであったり。

それに比べ、主人公であるにもかかわらずセイの自殺志願の理由にはあまり「これ」といったものが見当たりません。 だからこそ中立的とも言えるでしょうか。 仮に具体的な理由がある場合、本作の主軸ストーリーはその「事例に特化」したものとなり、 「自殺問題」自体の本質(と作者が考えているもの?)へ迫ることはできなくなってしまうかもしれません。

しばしば言われることですが、原因がある自殺は「自殺問題」ではなく、その原因の問題と言えます。 経済的な理由での自殺であれば、それは自殺問題ではなく経済問題です。 人間関係が理由での自殺であれば、それは自殺問題ではなく人間関係の問題です。 元になった原因を蔑ろにして「自殺」だけに目を奪われてしまうと問題の解決から遠ざかるばかりか、 自殺した本人の精神面に問題があったのだ、などと「被害者に鞭を打つ」ような物言いにもなりかねません。

その点で、主人公であるセイの自殺に具体的な理由が設定されていないのは、 ある種の「正解」と言えるかもしれません。

原因がある自殺は自殺問題ではなくその原因の問題だ、と申し上げました。 ただし、それらの原因はあくまでもキッカケに過ぎない、と見ることもできます。 人生における苦難や挫折をキッカケに、 そもそも生を続ける営みそのものの価値や意味に対する疑問を抱き、 自ら死を希求するようになる。 それこそが、個別具体的な原因にとらわれず、 その向こう側に見出すことのできる「自殺」の本質と言えるでしょう。

主人公が「島」で「生きる意志」を獲得する経緯

本作をおおまかに俯瞰すれば、 原因を持たない自殺志願者であるセイが主人公の立場を務めて「自殺問題」を「解決」し、 他の個別具体的な原因を持つキャラクターたちを牽引・感化していく物語と言っていいでしょう。

実際、主人公のセイだけに限定して言えば、最初の2巻で物語は終了しています。 山での鹿狩りを通して自然の摂理を体感し、生きる意志を獲得。 しかしその後、その体験談が他の人物には直接には当てはめられないことが分かり、 物語はさらに長期化していくのでした。

では、そんなセイが中心となり、他の人物たちとともに見出していく「答え」とはどのようなものであったか?

その前にまずセイのケースをもう少しだけ詳しくさらっておきます。 島に来た後、他のメンバーたちはそれぞれグループ内で各自の役割を果たしてサバイバルに貢献しており、 問題が発生しつつも協力して乗り越えていっている。 そんな中で主人公はなかなか自己主張もできず、不全感を募らせている様子が描かれます。 セイたちが生存のために努力を続ける一方、自殺者も続出しており、 何のために苦労して生き延びなければならないのかが分からなくなってきます。 そんな折、グループ内で揉め事が起こり、暴力沙汰に発展。 その負傷者も元自殺志願者ですが、 島でみんなと一緒にサバイバル活動をするのは楽しかったので死にたくない、と言い残して死亡します。 さらに冬が近づき、食料の確保が困難になってくる。 それでも自分の中の「死にたい気持ち」が消えない主人公は、このままではいけないと考え、 誰にも頼らず一人で山に入って鹿狩りをすることを決意。 山で野性の鹿と対面し、生命力に感動しつつ、弓矢で仕留めて殺します。 その際、命を「奪った」のではなく「受け取った」のだ、と「感謝」の念を感じ、 自分も命の輪の中で生きていこうと思うに至ります。 つまり言うなれば、 今までずっと他の生き物の命を「受け取って」生きているのだから、 これからも「感謝」しながら生きていく必要がある、ということのようです。 そして、「死ぬ=そのサイクルに参加しようとしない」ことは「逃げ」という扱いになる模様。

主人公の体験と他のキャラとのギャップ

さて、この体験がどのように他のメンバーを感化していくのか? 山から帰った後、他のメンバーに自分の体験を伝えようとするものの、 人によって自殺未遂に至った経緯は様々であり、 セイが山で感得した体験が一概には他の人に当てはまらないというシーンがあります。

ではさて、一体どうするのか? ということでその後が気になって読み進めてみたものの。 その後、物語は仲間割れや他グループとの対立へと突入していき、 自殺そのものに関する主人公の体験と他のメンバーの個々の事情とのズレに関しては有耶無耶になっている印象です。 例えばいくら自然に感動しても経済問題は解決しないと思われますが、 そこに直接触れるようなストーリー展開はありません。

最終的には主要メンバーのほとんどは島に残って生活を続けることを選択しているようですし、 経済問題に関しては本土の貨幣経済の外側へ「逃げ」てしまえば解決ということなのでしょうか。 しかしそういうのは本作で言うところの「逃げ」という批判の対象とはならないらしい。 本土に残してきた債権者に迷惑をかけている可能性がありますがそれも不問ということのようです。

一部のキャラは主人公とともに山での狩りに同行して 同様の体験をするシーンがありますので、それで「お悩み解決」なのでしょう。 その他のキャラについても、中盤以降は死にたがる描写がほとんど出てこなくなりますので、 共同生活や他グループとの戦闘を通して、これからも頑張って生きていこうと(?)心境が変化したらしい様子です。 これもまたストーリーの「うまさ」と申しますか、 サバイバル漫画として矢継ぎ早に繰り出される「面白さ」の中で煙に巻かれてしまった印象です。

> 元になった原因を蔑ろにして「自殺」だけに目を奪われてしまうと問題の解決から遠ざかるばかりか、 自殺した本人の精神面に問題があったのだ、などと「被害者に鞭を打つ」ような物言いにもなりかねません。

ではさて、「被害者に鞭打」っていないか? ということですが、 残念ながら、自殺問題を本人の精神面の問題に帰属させるかのような扱いを全体的に感じます。

本作を主人公のセイだけの個別事例の物語として見るならば、 自殺企図を本人の精神面の問題とし、その弱さを克服する物語として成立しているようではあります。 全編を通し、しきりに過去の自分を思い出しては 「逃げていた」「未来に向き合おうとしなかった」と卑下しています。 (同様の言動はセイ以外のキャラにも共通)

で、他のキャラにはセイの体験が直接には当てはめられないとしながらも、 そうした自己卑下のトーンを維持したまま、 共同生活やサバイバルを通して皆が「前向きに」なっていくストーリーが描かれ、 やがて最終回の大団円を迎えます。

個々のキャラクターの事例にも触れていないわけではないのですが、 と言うより、むしろ半端に触れられてしまっているからこそ、 「どんな事情があろうとも自殺をするような人間は精神に欠陥があるのであり、 社会に迷惑をかけずに本人の努力でその欠陥を克服せよ」 と言っているかのような印象を受けてしまいます。

特に性的虐待の被害者であるリヴなどは典型的な事例で、 「義父」という明らかな加害者が存在するわけです。 主人公との感動的なラブストーリーが展開される中で忘れてしまいそうになるのですが、 人を自殺に追い込むような人間を社会に野放しにしておく一方、 被害者を「社会のお荷物」として無人島に追放し、自己責任で精神鍛錬せよ、 と言っているかのようで理不尽さを感じます。

反対意見は許されない

> そもそも生を続ける営みそのものの価値や意味に対する疑問を抱き、 自ら死を希求するようになる。

こうした問いはほとんど存在しないようです。 何しろ全17巻という長大さですので、どこかで部分的には触れられていたのかもしれませんが、 こういう形で「生」に対しての疑問を正面から掘り下げるというパートは、 私が一読した限りでは、目立った形では見当たりませんでした。

あくまでも大前提として「自殺=悪」「生きる=義務」ということで固定しているのです。 その前提自体へ切り込んでいくようなストーリー展開は「ない」のです。 長大なページ数全体にわたって、 「生きなければならないのに、そうすることができない自分の欠陥」 を巡るストーリー、という枠からハミ出すことはありません。

唯一、その前提に反する思想の持ち主だったカイも、 結局は「その前提を受け入れることのできない弱い人間」として描かれてしまっています。 反対意見が尊重されない。 その前提に「従う=善」「逆らう=悪」という構図にすべてを巻き込んでいく。 そういう描き方がされています。

■ 「リア充自慢」「勝ち組マウント」

あまりネットの流行り言葉を使うのは好きではないのですが、 本件に関してはあまりにもピッタリですので使うことにしました。

「ボウシ」というキャラクター

ボウシと名乗るキャラクターによる「持てる者 / 持たざる者」という発言があります。 要は体格や容姿や能力など、世間で認められるような才能を持っている人間とそうではない人間がいて、 世の中は「持てる者」が「勝つ」ようにできていて 「持たざる者」は希望を持っても無駄である、というような考え方です。 彼は自分を「持たざる者」と卑下しており、それが自殺島へ送られた経緯ということのようです。

そんなボウシ氏ですが、島での生活の中で工作の腕前を評価され、 農具や武器を作る職人としての地位を獲得していきます。 さらには恋人までできて人生大逆転、と言ったところです。

で、それだけであれば敢えて何も言うことはないのですが、 「死」を肯定する思想を持つカイに対し、 おまえは自分が認められないのが悔しいから反抗している哀れなやつだと暴言を吐くシーンがあります。

これは何だか、控えめに言って「悲しい」ですね。 ちなみに、ボウシ氏が最初に登場した際に「持てる者」の例を語る場面で、 マンガの背景にカイの姿も描かれていました。 つまりボウシ氏の中では元来はカイも「持てる者」の1人として認定されていたものと思われます。

もともと劣等意識を募らせていたボウシ氏ですが、 いざ相対的に自分の立場が昇格した(と自分で思った)ら、 手のひらを返したように人を見下す行為に走ってしまう。 もう一度言いますが、これは控えめに言って「悲しい」ですね。

ストーリー上、カイは「悪役」ですし、 実際その本心はボウシ氏の言う通りだった、という設定ではあるのですが、 そうであれば尚更、ボウシ氏こそが誰よりも、 自分の存在が周囲に認められずに居場所が見つけられないことの苦しみを知っているはずです。

「悪役」であるカイは、このシーンの時点で既にいくつもの「悪事」を犯してしまっており、 ボウシ氏の念願の恋人も被害に遭っている場面です。 したがって「優しさを見せるべし」とは言いにくい場面ではある。

だからこそ何度も言いますが、「悲しい」わけです。 もう少し言葉を選ばずに言えば「いやらしい」。話の作りが「いやらしい」。 ストーリーの展開上、ボウシ氏にこの「言葉攻め」をさせるために、 わざわざボウシ氏の念願の恋人を「便利な駒」として被害者の1人にしているようなフシがある。 計算され尽くしているかのような話の作りに悪意を感じてしまいます。 シーンの中でボウシ氏が恋人の名前をつぶやくたびに、誰も文句を言えない空気感が場を支配する。 結局そういう形でしか正当化ができないわけです。 カイが罵倒されて貶められてる場面ですが、むしろ罵倒しているボウシ氏に悪い印象を持ってしまう。 こういう形で「努力して "生" に向き合う価値」を 表現しようとしているこの漫画自体へも悪い印象を持ってしまう。

成功を誇る

ボウシ氏は同じセリフを過去の自分にも言えてしまうのでしょうか? もちろん言い分はあるでしょう。努力して今の地位を手に入れたのだ、と。

具体的にボウシ氏がどのようにしてグループ内で「職人」としての地位を獲得したのか、 詳しいストーリーは出てきません。 しかしボウシ氏の他には同じような作業をしているキャラクターは登場しません。 つまりライバルはいなかったものと思われます。

もし、グループ内にボウシ氏よりも工作の腕前が上の人物がいて、 ボウシ氏の出番がなかったとしたらどうなっていたでしょう? あるいは実は他にもボウシ氏と同程度もしくはさらに上回る才能を持った人物がいたにもかかわらず、 ボウシ氏に先を越されてしまったので遠慮して肩身の狭い思いをしているのかもしれません。

職人として成功したことで恋人まで獲得して一気に「勝ち組」に昇格したわけですが、 マンガを読む限りではその女性から突然告白されており、 もともとボウシ氏の意中の相手であったのかどうかは不明です。 「誰でも良かった」のでしょうか? まるで女性の存在を「がんばったごほうび」という 「モノ扱い」しているかのようでもあり、あまりいい印象を受けません。

もともと両想いだったのかどうかは不明ながら、 仮にボウシ氏が職人として成功することがなかったとしたら、告白を受けることはなかったのでしょうか? だとすると、その女性はボウシ氏自身が好きなのではなく、 「地位を手に入れたボウシ氏」に近づいた計算高い女なのではないか? つまりボウシ氏は利用されているのかもしれません。 それは邪推に過ぎるとしても、恋愛と社会的な成功とを結びつけて描くと、 どうにも不純な感じが漂うのは否めません。

それでもボウシ氏本人が満足しているのであればそれはそれでいいのかもしれませんが、 これまた他にも職人候補がいたかもしれないのと同じで、 その女性に片思いをしていたキャラが他にもいたかもしれません。 あるいは、そういう恋のライバルがたまたまいなかったからこそ、 ボウシ氏がその女性と付き合うことができたのかもしれません。

つまり職人としてグループ内で成功できたのは、運によるところが多々あった筈ということです。 もちろん本人の努力もあったのでしょうけれど、 カイへの暴言を見るに、少々謙虚さを失っているように思えます。 しかし場面の文脈上、ボウシ氏の暴言を咎めにくいような空気感が醸成されてしまっている。 そこがマンガの描き方として「巧妙」なところですね。

しかしあまりこういうことを言うと、 私もボウシ氏に罵倒されてしまいそうですね。くわばらくわばら。

結局ボウシ氏は、自分がもっとも軽蔑していた筈の人間に自分自身がなってしまったのではないでしょうか。 「持つ者 / 持たざる者」という上下関係の中で、「持たざる者」を見下して共同体の隅に追いやろうとする。 そんな価値観の枠組み自体がボウシ氏を苦しめていた筈なのに。 最初のうちこそ、他の人にホメられても照れくさそうに謙遜する様子を見せていたのに。 それとも、その枠組みの中で自分が「勝ち組」に昇格して地位を固めてしまえば、 後のことはどうでもいいということなのでしょうか。 もはや自分は思う存分「負け組」を踏みにじる権利を手に入れたというつもりなのでしょうか。

結局、島でのサバイバルの果てにたどり着く「生きる」ことの答えが こういう利己的なものに過ぎないと言うならば、 カイが絶望してしまうのも頷けるというものです。

最終巻のカイのセリフが印象的です。

「さぁ…教えてくれ、セイ。 この世界に尊いモノがあるならそれを僕に見せてくれ。 自分の命以上に大切なモノがあると言うならね」

しかしそのカイも、単に自分が認められないのが悔しいから屁理屈を言っているだけの小物、 という設定で描かれてしまっているというのは前述の通り。 上記のボウシ氏の暴言の直後、漫画ではカイが半泣きになっているコマが描かれています。 ここまで来ると描き方として「意地が悪い」ですね。「陰湿」と言っても言い過ぎではない。 たまたまカイがその程度の人物だったからラッキー、というご都合主義とも言えます。 人に何を言われても動じない堂々たるダークヒーローとしてカイを描くこともできた筈なのに、 あくまでもその存在を矮小化してしまってます。 このマンガのこういう部分に、世の中に従順に適応しようとしない人間に対する、 マンガ表現の技術を駆使したネガティブキャンペーンのようなものを感じてしまいます。

恋人同士は「1つの命」

ボウシ氏の暴言ほど露骨ではありませんが、同様の件は他にもイロイロあります。 大きなところではセイとリヴの「1つの命」というフレーズ。 すっかり恋人同士になった2人が、2人で1つの命だから自殺しないことにする、と誓い合うシーンがあります。 これはどちらかと言えばリヴ編と言うべきで、リヴからセイへの言葉かな? いずれにせよ、たまたま自分を大切にしてくれる相手と出会えたから言えるセリフではあります。

そういう人と出会えなかったら救われないのでしょうか? それとも、自然の摂理に従って努力していればご褒美として与えられるものなのでしょうか? 与えられなかったとすれば、それは努力が足りなかったからだ、と言うのでしょうか? 結果論でどうとでも言えてしまうお馴染みの後出しジャンケンですね。

で、これもまたカイがサンドバック役として使われてしまうところになっていて、 リヴが終盤でカイに向かって 「頑張って行動したのは皆。一生懸命やった人だけが生きる力を得て、行動する人に皆がついていった」 と言い放つシーンがあります。 これまた「運良く」カイが卑劣な小悪党だったから、このセリフでリヴが悪者にならずに済んでいますが、 こういうセリフが飛び出すということは結局、 自分が「ハッピー」を手に入れられたのは自分の努力の賜物なのだという 驕った意識が根底にあるように見えてしまいます。

そもそもセイとリヴが同時期に島に送られていたのではなかったり、 もしくはセイがリヴ以外の人と結ばれていたらどうなっていたのか? あるいはもしかすると、リヴの他にも同じような境遇の人物がいて、 リヴがいなければその人物がカイと結ばれて「ハッピー」になっていたかもしれないのに、 リヴがそれを奪ってしまっているという可能性もある。 しかし、それも後述する「生き物を殺して肉を食べるロジック」と同じで、 「奪ったのではなく受け取ったのだから感謝」の射程内なのでしょうか。 セイと出会えたこともラッキーなら、カイが小悪党だったこともラッキーと言わねばならないところですね。

「○○ざるもの食うべからず」の思想

その他、島での日々の作業に参加しなかった者への食料の配布を渋るシーンが 日常の風景のように随所に登場します。 結局「食うために努力しろ」的な思想が根底にあるようです。 そもそもそういう脅しと強制で意に反する行動を強いられ続ける社会や人生に NOを突きつけて自殺(未遂)をしたのではないのか。 誰よりもお互いにお互いのことを理解し合える筈ではなかったのか。 あるいはその考えを貫徹したキャラはキャラ名を与えられて誌面に登場することもなく、 ひっそりと死んでいったのかもしれませんね。

確かに、主人公グループが魚獲りに苦労する傍ら、自殺者が続出していて、 何のために苦労して生きなければならないのか? と考え込むシーンは序盤にあったような気はします。

島での日々の作業の中で、人手が足りなくて困っている、といった描写はほとんど見られません。 食料の分量自体に問題がなかったのであれば、 作業に参加したくない人は無理しなくてもいいということにしておけば、 自殺を思いとどまった人も一定数いたのではなっただろうかと思ってしまうところです。

■ 都合の良い「自然」

主人公のセイが中心となって、自然の美しさや命のサイクルを体感し、 その中で生きていく意志を獲得する……というのが本作の大枠です。 しかし、そこで描かれる「自然」の有様が、少々都合がいいように見受けられるところがあります。

猪でも熊でもなく「鹿」

まず、セイやセイのフォロワーとなる一部のキャラクターにおいて、 野生動物を狩って肉を手に入れるまでの一連の活動を通して 自然や生命力に対する畏敬の念を感じたりするシーンが展開されるわけですが、 そういう場面で出てくるのが決まって「鹿」なのですね。猪や熊などではなく。 「命を奪ったんじゃなくて受け取ったんだ……感謝!」と感動的な空気感で語られますが、 相手が自分よりも強い猛獣だったら、そんな悠長なことを言ってられるでしょうか?

「生き物を殺す資格があるのだろうか?」などと深淵な問いが何度となく発せられます。 しかし、こうした問い自体、 「自分は生き物を殺して食べる側の立場だ」という都合のいい強者の発想です。

自然の摂理に感動し、命の輪に加わることをよしとするのであれば、 肉食獣に自分の体を捧げるなり、自害して土に還るなり、他にも選択肢はありそうなものです。 「他ならぬ自分」が「生き続ける理由」はそこには含まれない筈です。

それに関してはやはり山での鹿狩りの体験だけでは不充分ということのようで、 別の場面で「生態系を守るために捕食者が必要だ」というロジックが登場します。 で、その捕食者というのが「自分たち人間」だ、と暗黙的に思い込んでいるようで やはり何だか都合がいい発想のような感じがしてしまいます。 「自分たち人間」だけを自然の中で特権的な地位に置くような驕りが感じられてしまう。

こうした考え方自体を議論の俎上に乗せれば様々な意見があるところだとは思いますが、 マンガの中では感動的っぽいふうに描かれてしまっていますので、 「眉唾」と言うのとは少し違いますが、 ここは少し冷静にならねばならないのではないか、と、 読んでいて警戒心を抱いてしまうところではあります。

猪の場合

「害獣」として畑を荒らす猪が登場するシーンもあります。 で、鹿のときと同じように猪を仕留めるわけですが、 このシーンでは「命を奪ったのではなく受け取ったのだ感謝だ」という お馴染みの "自然さんありがとう教" のイニシエーションは出てきません。 にっくき猪には情け容赦は無用ということなのでしょうか。 あるいは、鹿のときよりは苦労の度合いが高かったような描写もありますし、 努力して勝ったのだから敗者を搾取するのは当然、という「勝ち組」の理論なのでしょうか。 それにしても「猪だって必死に生きているのだから」的なセリフを誰か言ってもバチは当たらないだろうに。 狩りのシーンは完全にマンガ的な「戦闘シーン」そのもの。そんなに猪を悪者にしなくてもいいのに。 邪推なのかもしれませんが、この箇所に限らずマンガとしての「うまさ」が、 思想の語り方としては卑怯に見えてしまうところがあったりするのは本作の特徴のような気がいたします。

サメの場合

もう一つ、人間よりも強い野生の生物として「サメ」が登場するシーンがあります。 このときは「手強い相手だった」とサメをリスペクトする言動がありましたね。 ただ、サメを獲る必要があったのかどうかはよくわかりません。 出没しやすい場所や時間帯も分かっていたようですし、 わざわざ海に血を撒いておびき寄せてまで獲る必要があったのかどうか。 これまたマンガとして迫力のある面白いシーンではありました。

むしろ、ここでサメを出してきたのは、 後にサワダがサメに食われて死ぬという展開の伏線だったように思われます。

敵対するグループのリーダーであるサワダを激闘の末に追い詰めて、 逃げようと海に飛び込んだサワダはサメに食われて死ぬという展開。 この戦闘の際、セイは最後までサワダを殺すことを躊躇していましたが、 こういう死に方をしてくれたおかげで、自分が直接手を下さなくて済んだ形になるわけですね。 まるで「自然の摂理」で悪のサワダに天罰が下った……、 とでも言っているかのように見えるのは深読みしすぎでしょうか。 つまり、これもどことなく「自然」の都合のいい描き方の一環のように見えてしまう……ということです。

「自然」は「罪」の責任を免除してくれる

前述の通り、セイはサワダにトドメは刺しませんでした。 よく見ると全編を通してセイが直接殺した人間は最終巻でのカイだけなのですね。 他のキャラはさんざん殺し合ってますし、 セイ自身も躊躇はしながらも敵となっている人間の足などに矢を当てるシーンや、 結果的に死に追いやってしまうケースはあるものの、 明確に殺す意志を持って直接トドメを刺したのはカイだけなのでした。 それまでは人間は誰も直接殺していない。 だから、生きるために他の生き物の命を奪っていいのか、と苦悩している様子をさんざん描いていても、 そこで表現されている「罪の意識」に、今ひとつ重みが感じられない。 人間と違って野生動物なら殺してもいい、という「軽さ」にも感じられる。

そのカイにしても、実は苦しんでいて誰かに殺してもらえるのを待ってたのだ、という解釈になっています。 野性の鹿に対する「奪ったんじゃなくて受け取った」にも通じる便利なテレパシーですね。 結局セイ自身が罪を感じなくても済むようなストーリー回しになってしまっている。 その後この一件とどう向き合っていくのかは、 そもそもこのマンガ自体がそこで終了してしまうので描かれないわけですが。

とは言え、人を殺したのは事実。さんざん躊躇した末に自分が手を下した。 それに関してはどういう扱いになっているでしょうか?

最終巻のカイとの対決の直後のシーンで、矢を射られて死ぬ間際のカイに、

「僕やサワダのような人間が現れたら、また殺すのか?」

と、読んでいて誰もが思うはずの疑問をぶつけられ、

「殺す殺さないなんて始めは考えもしない。僕はリヴを守るために全力を尽くす。ただそれだけだ」

と答えています。つまり、 場合によっては殺す=愛する人を守るためなら人殺しは正当化される、 と「はぐらかしながら答える」というのがセイの「答え」のようです。 あるいは単に美辞麗句を用いた思考停止・問題の先送りなのでしょうか。 それなら人を愛さない方がいいとか生きない方がいい、といった逆転のロジックも出てくることはありません。

あるいは、セイは「自然の輪」の中で「全力で生き」ているのだから、 その結果、人を殺すことになったとしても、それは「自分の責任」にはならない、ということかもしれません。 つまり「責任能力」の放棄ですね。「自然の一部」なのだからもはや「責任ある個人」ではなくなる。 なるほど、「自然」とはこのように便利なものでもある。 たとえば言えば、上司の命令だから部下には責任がない、というのに近いでしょうか。 「自然」に溶け込むことで「人間」は「罪」を問われる「主体」ではなくなる。

しかし、そう答えながらもセイは涙を流しており、

「何故…泣くんだ…君が」

とカイに問われ、

「わからない。ただ悲しいんだ…君が死ぬのが…」

とも答えています。 やはり「この世で生きること」への執着に伴う悲しさは人として無視できないということかもしれません。 というより、そこで涙の1つも見せておかないと、 セイが悪者になったままマンガが終わってしまうということかなと思うところではあります。

冬のシーンがない

物語の中で、冬が近付いて魚が獲りにくくなってきた、というシーンがあります。 漂流モノと言えば冬編は定番。 で、来る冬に備えて食料の備蓄などに励もう……という言動があるのですが、 肝心の冬のシーンが出てきません。

マンガの絵としては伝わってこないだけで 「実はここからここまでは冬の期間」というものはあったのでしょうか。 登場人物たちが「今は冬だから云々」と何か冬らしい話をするわけでもなく、 服装にも目立った変化は見られません。 メンバーたちが「来年の春に田植えをしよう」と言う回があり、 そのしばらく後に「田植え」をする回がありますので、その前が冬だった筈ですが……。 強いて言えば海水が冷たくて魚獲りの際に寒い、という場面はあったような気はするものの、 取り立てて「冬らしい深刻さ」が伝わってくるということはありませんでした。

例えば冬ごもりの中で本格的に食料が不足して、食い扶持を減らすために誰かが犠牲にならねば……! というような、さらに「自殺」について奥深く掘り下げる展開が見られるか、と期待したりもしましたが、 そこまでの「サバイバル極限ドラマ」にはならなかったようです。

自殺島は南の島という設定らしいので、 冬と言っても雪が降るわけでも凍えるほど寒くなるわけでもない、ということなのでしょうか。 それにしても、これまたサバイバルをするには「都合のいい」島ですね。 そういえば大雨や台風や津波のシーンもありませんでしたね。ずいぶん良い立地のようです。

自殺島は実は自殺志願者を「生かす」ために 政府によって用意された環境であるらしいことがほのめかされていますので、 いろいろと「都合がいい」のは不自然なことではないのかもしれませんね。 しかし、だとすると「自然」じゃなくて「人為」ということになってしまいそうですが、大丈夫なのでしょうか。

他の漂流記モノ作品と比較しても仕方がありませんが、 『自殺島』が「自然の中で生きる意味を問う」といった内容であることを考えると、 自然の厳しさの一側面として冬の要素を省いてしまって本当によかったのか、とは思うところです。

■ 出生賛美

終盤に出産シーンが登場します。 メンバーの中にナオという元風俗嬢がいて、 島に来てからも島の男性たちを相手に体を売っており、父親の不明な子供を妊娠。 島の乏しい医療設備の中で苦労して出産、というエピソードです。

この一件が主人公のセイが見つける「自殺してはいけない理由」の「答え」になるわけですね。 要は、誰もが母親が苦労して出産した末に生まれたのであり、 先祖代々そうやって続いて来たのだから、その命を自分から捨ててはいけない、ということですね。 よくある「命のバトン」理論です。

無事に出産が終わった直後、 主人公が「そうか! そうだったんだ!」と突然閃いたかのように、上記の理論を語り始め、 「ついに答えを見つけた!」と、他のキャラクターたちとともに感涙にむせび泣くのでした。

これは、あれですね。 最近のインターネットの一部の界隈では袋叩きにされるやつですね。

私は慈悲深い善人なので言葉を選んで書きますが、 それでもこのマンガのこのシーンには控えめに言って「茶番」くさい印象を否めません。 まず、主人公のセイが、今初めてすごいことに気付いたかのようにこの理屈を語り出す、 というのがいかにもわざとらしい。

なぜなら、この手のことは自殺企図者へのお説教の定番中の定番だからです。 セイも他のメンバーも、自殺島に送られるほどの「自殺未遂常習者」だった。 そんな強者ぞろいの面々が、この理屈を聞いたことがなかったとは不自然です。 むしろ、さんざん聞かされてウンザリしていなければおかしい。 せめて、話としては聞かされていたけれど実際に間近で出産に立ち会って実感、 ぐらいの物言いであれば、まだ少しは説得力があったかもしれないのですが。

この理屈を終盤に「答え」として持ってきて、主人公たちに感動とともに語らせるということは、 自殺を批判したい側の人(=作者?)にとっては、 こうした理屈は「これでドヤ!」ってな感じの最終兵器なのでしょうか。 しかし残念ながら、このシーンによって、「自殺」を看板に掲げる本作の正体が知れてしまう。 この理屈が、自殺を考える人の気持ちから如何に遠く離れたものであることか、 わからない人にはわからないものなのかもしれませんね。

そもそもこのマンガは「自殺を考える人」に向けてではなく 「自殺を考える人にお説教をしたい人」の側を向いて描かれたものなのであろうことが、これで一層明確になります。 仮にほんの少しでも前者の方を向く意図があったのであれば、こんな描き方ができる筈がないのです。

その場の全員がハッピー全開で、疑問を口にすることが許されないかのような空気感には、 こう言っては不適切かもしれませんが、どこかカルト宗教めいた不気味さを感じないではありません。

もちろん思想は自由です。マンガなど好きに描けばよく、読みたい人だけが読めばいいのです。 そもそも冒頭でイキナリ「自殺志願者への説教モード全開」という警告が親切にも入れられているわけで、 その時点で読みたくないと思った人は読んではいけなかった。 悪いのは私です。本当に申し訳ございませんでした。

それを重々承知の上で、昨今のインターネットの一部の界隈でさかんに交わされている議論も参考にしつつ、 このシーンに対する雑感を申し上げておきます。

一言で言ってしまえば「生んでくれと頼んだわけではない」ということです。 頼んだわけでもないのに、とある男女が中出しファックをしたばかりに生まれさせられてしまった。 そしてこのマンガで言うところの「生きる義務」とやらを強制的に負わされ、 その後の数十年もの間、飢えの苦しみや死の恐怖や他者や他種との生存競争に晒される。

そして最後は必ず死んでしまう。 それも大抵は楽な死に方ではなく、病気や事故で苦しんだ挙句に死ぬことになる。 そうなる前にできるだけ楽な死に方を選ぼうにも、 「自殺島」のようなところに送られてさらに過酷な生(or死)を強要されてしまう。

そもそも親となる男女が中出しファックさえしなければ、これら全てが発生しなかった。 生まれさせられたことが全ての元凶であり、生まれてこなければ一切の問題が生じなかった。

出産に苦しみが伴うのは事実としても、それは本人が中出しファックをした結果に他なりません。 それは親となる男女の選択なのであって、生まれさせられることになる子供の選択ではない。 親となる男女が自分たちの選択で中出しファックをし、 その結果、「生きる義務」とやらを他人(子供)に押し付ける。

百歩譲って子供本人が親に気を遣って、死なないでおいてあげよう、と心がけるのは それは本人自身の中で完結する選択ですが、 親の立場から子供に向かって「生んでやった」などと感謝を強要する筋合いはありません。 ましてや、まだ存在していない子供の世代へ自分もそれを続けねばならないことにもならない。 このマンガ内で直接そういった発言があるわけではありませんが、 セイがこの「答え」を閃いた場面は、 周囲のキャラクターたちとともに感動にむせび泣く、という描写になっており、 それを批判するキャラクターも一切登場しません。 他のキャラも積極的に子作りに励むようになったことを匂わせる後日談も描かれる。 一定の普遍性をもって肯定的に受け入れられて然るべき、という表現上の意図を感じます。

「先祖代々続いてきた」というのも同じですね。 「だから今後も続けなければならない」という結論を後ろ手に隠しているようですが、 それを言うなら「だからこそ自分の代で終わらせねばならない」とも言える。 一体いつまで続ければ気が済むのか? ずっと他人に「苦しみのバトン」を押し付け続けてきた歴史です。 すでに起きてしまった過去のことを責めても実質的な意味はありませんが、 その苦しみの連鎖を自分も自分の子供の代へ押し付けてしまうのかどうか? その選択は自分自身の手の中にある。

最終回では他の女性キャラも妊娠して腹部が膨張している様子が 「平和でハッピーな光景」として描かれておりますので、 「子作り」は問いの俎上に乗ることのない「当然のこと・義務」 という暗黙の前提がそこにあるようです。

「生きる義務」という言い方を最初にしてしまっている。 その前提自体を問う、ということをせず、その前提の上で、 それを受け入れ(られ)ないことを卑下しつつ、 いかにして受け入れていくか、という話になっており、 その義務を「受ける」側の心構えが語られることはあっても、 その義務を「負わせる」行為が問いの俎上に乗ってくることはない。

「生」の範囲内だけに目を向けるならば、 自分が生きていくためにしなければならないことはあるでしょう。 しかし、生まれてこなければそんな必要(義務?)はなかったわけです。 また、生きる上で社会を維持するためのコストというものもあるでしょう。 しかし、「そのために」他人(子供)を生み出して義務を負わせるというのは、 生きている人間の側の身勝手とは言えないでしょうか?

あるいは、このマンガの言い方に合わせれば、 「命の輪」に加わって「捕食者」になるのが人間の役割ということになるでしょうか。 しかし、それこそ人間が勝手に言っているだけであって、 むしろ人間が滅んだ方が地球のためになるとはよく言われることです。 そうした可能性を棄却して、敢えて「人間」に「生きる義務」がある、 というのはあまり説得力のある話のようには見えません。

さらに言えば、「妊娠出産に伴う女性の苦しみ」を担保にしているというのも、おぞましいと感じます。 作中でも述べられているように、死ぬ可能性さえある危険な行為です。 だからこそ、その苦労をねぎらうべし、というのは話の片方として理解はできますが、 だからこそ、そんな負担を女性に味わわせるのはいかがなものか、 という話がもう片方に出てきてもよさそうなものです。

その「苦しみ」はセックスをした本人の選択の結果ではありますが、 それがもしも本人の選択ではなく、 社会的な慣習の圧力で強いられたものなのだとすれば、尚更おぞましいことです。

しかし作中では感動の空気が激しく渦を巻くばかりで、誰一人そのような発言をしません。 サバイバルの際には盛んに「愛する人を守るため……!」と言って戦っていたのに、 その「愛する人」を中出しファックの結果で危険に晒すことを誰も疑問視しない。 この描き方には大きな違和感を覚えます。

「先祖代々続いてきた」というのは、一つの事実に過ぎません。 「だから自分の代で途切れさせてはいけない」の意味のようですが、 だからこそ、そのような「苦しみのバトン」を延々と続けていくことへの疑問が生じる土壌にもなる。 しかし本作の中でそちら側の見解に触れられることはないのでした。

きっとその「先祖代々」の中には出産で命を落とした人や、 それによって現代にまでは続いてこなかった「バトン」の分岐もあることでしょう。 しかしこのマンガで表現されている思想に従えばそうした犠牲もまた 「犠牲を払いながら続けてきたのだから、ここで止めずに続けていく義務がある」 という結論へと回収されてしまいそうです。

そんなことを一体いつまで続ければ気が済むのでしょう? この世は地獄だ。 こういう話に触れると、ますます「死にたい」気持ちが強まってしまうのは私だけではないような気がいたします。 ああ、でもそんなこと言ってたら私も「自殺島」に強制的に送り込まれてしまいそうですね。くわばらくわばら。

ただ、いろいろ「都合のいい」ところのある本作ですが、 「子供は望んで生まれてくるのよ」的なカルト教義を語り出さないだけ良心的とは言えるかもしれません。

もちろん、さらに大きな宇宙的規模では本当のところ何が真実なのかは誰にもわかりません。 この無限ループを続けることに何か私たちの知らない深淵な意味があるのかもしれません。 生まれる前の世界が存在していて実は人間は望んで生まれて来ている…… などという可能性もまったくのゼロと断言することはできません。 しかし、このマンガに関して言えば、良くも悪くも、 そこまで壮大な視野で描かれているわけではないようです。 あくまでも社会通念の範囲内でそれを強化するようなストーリーが展開されているだけです。

そもそも本作では目的を設定したり理由や意味を問うこと自体を 何か「現代社会の良くない習慣」として批判的にとらえているようなフシが見受けられます。 主人公のセイが両親から将来の目標について問い詰められてストレスをためていた件に触れ、 複雑化した現代社会では意味や理由や目的を優先するあまり、 自然な状態の人間が本来持っているはずの「喜びを感じる能力」が損なわれているのだ、 といった現代社会批判が書かれており、 サバイバルシーンの随所で「生きるために生きる」のが生物として正しい姿であるといった記述があります。 そうした記述が自然の摂理や懸命に生きようとするセイたちの姿を美しく描写しつつ語られる。 この現代社会批判自体はなかなか興味深い論説ではありますが、 結局「なぜ生きるのか?」といった問いを行うこと自体を却下してしまっているわけですね。

それも「お悩み相談」に対する一つの考え方ではありますが、 そうやってただ「自然」に身を任せて「命の輪」を続けることで、 いつまでも苦しみを生み出し続けてそれを他者へ引き渡し続けることになるという現象に加担することになる。 そのことに無自覚になることを推奨しているかのようで、あまり共感はできません。 そしてその身を任せる美しい「自然」の描き方が 何かと「都合がいい」ものであるというのもまた前述のとおりです。

余談ですが、出産の役割をナオというキャラクターに務めさせたのは 一体なぜだったのかと勘ぐってしまうところではあります。 ナオは島の男性たちを相手に体を売っていた女性です。 これを言うと、性産業に従事する方を差別する意図が (私自身に)あるのではないかと疑われてしまいそうで言いにくいのですが、 フィクションとしてどうにでもなる筈なのに、なぜナオでなければならなかったのか? よりによって「愛のない」性処理の結果として、子供の誕生を描いてしまっている。 愛がなくてもセックスさえすれば子供は生まれてしまうのだ、という事実が表現されてしまっている。 命の連鎖を美しく見せたかったようですが、この表現で本当によかったのでしょうか? それとも、だからこそ「自然の摂理」が際立つというものなのでしょうか? 敢えて父親を不在にすることで、「女性の崇高さ」を際立たせたかったのでしょうか? 責任の所在を曖昧にしようとしたのでしょうか? この点に関しての作者の意図は不明です。

さらに余談ですが、サワダ側のグループでは毎晩乱交パーティが開かれていたという設定ですので、 主人公側以上に子供が生まれていそうですが、そこには全く触れられていません。 ナオとその子供はまだ運が良かったのだとしても、島の乏しい医療設備や過酷な環境の中、 そちらのグループで全員が無事に出産できていたとは考えにくい。

根本的に「生」を続けること自体への無批判さもさることながら、 生殖に伴う負の側面に触れずに美化だけをするのはアンバランスと感じます。 もちろんマンガに過ぎませんのでバランスを取る「義務」などないのではありますが。 しかし仮にそういう展開を出すとしても、生き残った人間に対して、 「だからこそ生き延びねばならない」 というふうにロジックを回収してしまいそうですね。 議論をすれば平行線になりがちな領域であろうとは思います。

■ 「生」を強要する社会が「生きづらさ」を作る

自分の意志で死ぬのは難しいものです。 たとえ本気で死ぬつもりだったとしても、それでも難しいものです。

そして「本当は死ぬ気などないのだ」「本当は生きたいのだ」 という "説" が出てくるというのはお馴染みの話。

さらには「人の気を引くためにやってるだけ」「現実逃避をしているだけ」 といった "お叱り" が出てくるというのもお馴染みの話。

死ぬ前にはさんざん無理解なお説教を浴びせておいて、 いざ死んだら「相談してくれればよかったのに」などと言ってみたり、 果ては「死ぬのは迷惑」などと言ってみたりもする。

実際に死ぬのは大変難しいことですので、 生きたいわけではないけれど、さしあたりは日常生活を営む。 うっかり死をほのめかすような態度を漏らしてしまえれば何を言われるかわからない。 自殺を巡っては、実際に「自殺者」としてカウントされる件数以上に、 そうしたリアルがあるものと思われます。

前述のとおり、作中でメインキャラの中からは自殺者は出ません。 自殺で死ぬのはモブキャラばかりであり、死を選んで本当に旅立っていく物語が描かれることはない。 結果的に「本当は死にたくない」キャラしか残らないことになります。 中盤以降の他グループの戦闘の際などは当たり前のように死を恐れる発言が飛び交います。

その一方、自暴自棄になって無法化する人物のエピソードはあったりする。 カイにいたっては猟奇殺人者のように描かれている。 自殺に関する「俗説」を強化するとともに、反社会的な危険人物であるかのように描く。

数多くの自殺未遂者が登場しますが、大体のところ、 「何か個人的に辛いことがあったから自殺(未遂)した」 というパターンのカタログであり、 自殺(未遂)をした本人の精神的な欠陥が強調されるばかりで、 その本人を自殺に追い込むような環境については、断片的な言及はあれども、 そこへ正面から疑問を向けるようなストーリーが展開されることはありません。

ラストのオチでは「島」はその後「未遂者などの社会復帰プログラムに活用」されるとあります。 「社会復帰」という言い方に「正しいのは社会だ」という前提が組み込まれています。 最後まで「自殺は本人の精神的欠陥の問題」という扱いになっています。

人間はこの世に生まれ(させられ)た以上、必ず死にます。 しかしそうした人間存在の根本問題については 最終巻の葬式のスピーチの中で取ってつけたように触れられるのみであり、 ストーリーを通して掘り下げられることはありません。 逆に言えばそうした根本問題に気付いていないわけではないということです。 気付いていながら全力で「逃げて」いる。その結果、壮大な叙事詩が描かれる。 どこまでも「生」の内側に閉じた視点が展開され、 「生」そのものを疑うことは許さず、この世への適応のみを強要し、 「適応できない自分の欠陥」を問い詰めるばかりです。

さらにはそうした「この世」に新たな命(他人)を生み出して巻き込むことに対しても 疑問の一片すら差し挟まれないばかりか、喝采を持って迎えられさえする。

こうした一連の「閉じた輪」に、 まさに死にたくなるほどの息苦しさを感じるのは果たして私だけでしょうか。

もちろんマンガなど好きなように描けばよく、読みたい人だけが読めばいい。 こうしてあれこれと書いていると、 たかが漫画にムキになっても仕方がないのかなと虚しくなってくるところではあります。 そうですね。「たかが漫画」であればいいのですが。

本作は約8年の長期にわたって商業誌に連載された全17巻という超大作であり、 途中で打ち切りにもならずそこまで続いたということは、 世間から一定以上の支持を得ていたものと思われます。

結局、このマンガで表現されているような自殺観が世間で広範な支持を得やすいとは想像できます。 言うまでもなく、これ自体はあくまでマンガに過ぎません。 読んだ人の全員がこの内容を真に受け、自殺問題の処方箋であるかのように考えるわけではないでしょう。 しかしながら、ここに表現されているような考え方自体が 「生きづらい社会」の温床になっているような気がしてなりません。

【戻る → 自殺を扱うサブカル作品ネタバレ感想集】