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「自殺」を扱うサブカル作品ネタバレ感想

「自殺」を扱うサブカル作品ネタバレ感想

『スーサイドショップ』

【形式】アニメ映画

今回はフランス製のアニメ映画『スーサイド・ショップ』を視聴してみました。

「スーサイド」なんてカタカナで言うと、「シーサイド? 海辺?」ってな軽い印象になってしまいますが「自殺(suicide)」ですね。 原作の小説があるらしく、邦題は『ようこそ、自殺用品専門店へ』とのこと。

さて、フランス製ということで、「自殺」の取扱い方に文化の違いが見られるか……? と興味を持って視聴してみたのですが、 その点に関しては本邦と大きく違うところはないようです。 あくまでも「死=悪」「生=良」であり、 どこまでも「自殺=暗い・苦しい・無気力・絶望・不幸」であり、 ただ単純に「生きる=明るい・楽しい・意欲的・希望・幸せ」です。 日本のアニメ以上にデフォルメされた絵柄とも相俟って、 固定観念の嫌味なほど忠実な戯画化が見られます。 表現上のセンスの違いは文化の違いでしょうか。

タイトルからもわかるように、自殺志願者向けの自殺用品を売る店の話です。 この設定だけを見ると自殺に肯定的か、と見せかけて、 結局は自殺をヤメて「明るく楽しく」せよ、という内容です。 展開はかなり強引。 理屈もドラマも何もありません。 なぜ自殺がダメなのか、なぜ生きるべきなのか? それ以前になぜ自殺したいのか? なぜ生きたいのか? 何の説明もないまま、 「明るく楽しい」子供のイラズラで 「暗い」自殺用品店が「明るい」クレープ屋に変わってしまう。 お説教とさえ言えない。 精一杯言葉を選んで言うと、見終わった直後の印象は「は?」です。

「無邪気な子供の影響で、絶望していた大人が生きる意欲を取り戻す」などと言えば いかにも何かハートフルな物語のように聞こえてしまいそうですが、 全然そういう感じはしませんでした。 ハートフル以前にハートがない。 ただ単に戯画的な「暗い大人」と「明るい子供」が出てきて、 子供が大騒ぎをして「暗い大人」が「明るく」変わる。それだけです。 ハートフルどころかハートレスと言った方が良さそうです。

子供向けのアニメとして敢えて小難しい要素を除外した結果、 こうなってしまったのでしょうか? そもそも子供向けなのか? そのあたりの文化的な背景については、よく分かりません。

やはり海外製ということもあって、 絵柄や表現方法は本邦で見慣れたアニメと比してかなり異質であり、 実際のところ「どういうつもり」なのかという 「距離感」が今ひとつ分からないのは認めざるを得ないところですね。

自殺のホラー的な印象を利用したブラック系のネタをやりたかったのか? それとも「良い子は自殺しちゃイケないよ」とでもいうような 教育的なアニメをやりたかったのか?

陰鬱っぽく描かれる自殺志願者たちよりも、 始終ニヤニヤしている子供(アラン)の方がむしろ不気味に見えてしまいました。 自殺志願者の内面に寄り添う姿勢を1ミリを見せず、 強引に「明るさ」を押し付けるさまは冷酷ですらある。 「子供」という立場を免罪符にして振るわれる「笑顔の暴力」。

もしかすると、そうした逆の意味のジョークと言いますか、 皮肉を込めた表現だったのでしょうか。 あるいは見慣れない絵柄ゆえにそう見えてしまうだけなのか。 ……などと思わず深読みしたくなってしまうのは、 そうでもしなければ気持ちが置いてけぼりになるほど、 「は?」という印象を覚えてしまったということでもあります。

あまり批判的なことを言いたくはない……という以前に、 批判する気にすらなれないというのが正直なところです。 「釣り」なのではないかとさえ思えてしまう。

それなりの制作費をかけた「アニメ映画」ではあり、 はるばる海を越えて日本にまで紹介されているというのは、 一種の文化的・社会的な「現実」ではあります。

この『スーサイド・ショップ』という作品そのものを批判するかしないかという以前に、 こういうものが存在しちゃってる、というこの「現実」をどう受け止めるか? その点にこそ、「自殺」を巡る我々のリアルがあるのではないかという気がいたします。

ちなみに小説版は読んでおりません。 批判がましいことを書くなら読んでおくべきか? とも思いましたが、 正直ちょっと、そこまでしているといつまでたっても感想が書けないと申しますか、 今回は敢えて読まずに「純粋に映画版だけの感想」とさせていただくことにしました。 (最近は図書館も気軽に出入りできないし……)

ところで小説には『ようこそ、自殺用品専門店へ』という邦題がついているのに、 映画版は『スーサイド・ショップ』などという 軽いカタカナ語にしてしまったのはなぜなのでしょう? タイトルだけで自殺がテーマということが分かる日本人がどれだけいらっしゃるか? 「自殺」という単語を避けて軽い印象にするために、 わざわざカタカナにしたのではないか……というのは深読みしすぎでしょうか。 良し悪しはさておき、何らかの「配慮」があったのではないかと想像いたします。

■ あらすじ(ネタバレ)

※敢えて登場人物等を絞り、ストーリー全体の主軸と思われる要素だけを記述します。

高い自殺率を誇る陰鬱な街。その一角に「自殺用品専門店」は存在する。 自殺したいけれど失敗が怖い。そんな自殺志願者向けに、首吊り用のロープや毒薬など、 確実に死ぬためのグッズを販売している。

店主のミシマ。 先祖代々続く自殺用品店を受け継いで、懸命に店を切り盛りしている。

娘のマリリン。 自殺用品店の一員として、人生に悲観的な態度を持つようミシマ夫妻に育てられた。

ミシマは責任感を持って店を続けていた。 死に救いを求める人々の手助けをする。この店は自殺志願者の多いこの街に必要な存在だ。 しかし実は、人を死なせることにストレスも感じており、精神的には限界だった。

そんなある日、ミシマの一家に末弟のアランが誕生する。 アランはなぜか生まれつき天真爛漫。 一家の教育方針に反し、生きる意欲に満ちた少年へと成長する。

アランは人々が自殺をすることを良く思わず、 製品に細工をして客の自殺が失敗するように仕組むなど、店の邪魔ばかりする。

アランは何とかして人々に自殺をヤメさせようと計画を立てる。 ある日、店の前で巨大なスピーカーを使って賑やかな音楽を大音量で鳴らした。 振動で商品は全て棚から落ち、店は崩壊。売り物が無くなり営業が続けられなくなる。

一方、その賑やかな音楽の影響で、たまたま店に客として来ていた青年とマリリンが恋に落ちる。 2人は生きる意欲を獲得するのだった。 その様子は周囲の人々にも影響を与え、店はクレープ屋にでも改装してはどうかという話になる。

しかし店主のミシマは怒り狂い、刃物を持ってアランを追いかける。 追い詰められたアランは「お父さんを笑わせたい」と言ってビルの屋上から飛び降りる。 我に返り、絶望するミシマ。 しかしビルの下ではアランの友人たちが待ち構えていた。 飛び降りは父を驚かすためのイタズラだったのだ。 アランが死ななかったことにミシマは安堵する。

その後、店は人生を謳歌する人々が集う明るく楽しいクレープ屋として再出発するのだった。

■ 「自殺」への深い理解を思わせる点

全体の筋書きとしては(実に粗雑な形で)自殺を否定し、 生きることを無邪気に賛美するという、ただそれだけ、のものですが、 一見して「自殺」への深い理解を思わせる点もあります。

まずは「自殺用品店」という設定ですね。 一般に自殺志願者が自殺をためらう大きな理由の一つは 「失敗するかもしれない」という不安です。 痛みや苦しみを味わうだけになってしまうかもしれない。 障害が残ってしまうかもしれない。 死ぬのは決して簡単なことではない。

自殺に否定的な人の口からは、 「そんなに死にたいならさっさと死ねよ」 「死なないってことはどうせ本気じゃないんだろ?」 などと、自殺が簡単なことであるかのような言説が飛び出しがちであるというのはご存知のとおり。 一方、死ぬのは決して簡単ではないということは、 死ぬことを少しでも現実的に考えたことがあれば理解できるところでしょう。

したがって「自殺用品店」という設定自体が、 「自殺」ということに対する一定以上の「理解の深さ」を物語っていると言えます。

それからもう一つ。 「自殺用品店」のようなものを営んでいながら、 店主のミシマ氏やその家族が自殺しないという矛盾。 これに関しては作中で明確に述べられている箇所があり、 その答えは 「自殺志願者を手助けする存在として、自分たちは店を続けねばならないから」です。 自殺を肯定し手を差し伸べる者は、 だからこそ最後まで生きていなければならないというパラドックス。 これは非常に興味深いですね。 このようなジレンマが提示されているということは、 「自殺」に対する一定以上の思慮の蓄積を物語っているのではないか。

しかしその後の展開は、 ただひたすら粗雑に「明るく楽しく」自殺否定・人生賛美に走ってしまうというのは前述のとおり。 このギャップは何なのか。

ミシマ氏たち自身が自殺しない件に関しては、 「自殺用品店」という「ネタ」を思いついた後に 「ツッコミ対策」として後付けで考えただけだったりするのかな、とも推測します。

■ 「明るく楽しく」で「自殺」がなくなるのか?

本作で末弟のアランが行った「自殺問題」の「解決策」は 「アップテンポの音楽を大音量で無理やり聴かせる」でした。 この「騒音」の音波で「自殺用品店」は崩壊し、客と店員が恋に落ち、 その場にいた人々の自殺願望が消えるのでした。

どんちゃん騒ぎと衝動的な恋愛。

あまりにも乱暴過ぎます。 これはちょっと、いくらなんでもノーガード過ぎて、つっこむ気にもなれません。

「自殺」に対する無理解さ・無神経さもさることながら、 これでは、ここで称揚されている「生」すら軽薄で狂気じみたものに見えてしまう。 むしろアランこそ、 世間の少なからぬ人々が「自殺」を理解しようともせず 表面的なお説教でお気楽に善人ぶる様子を皮肉ったキャラクターなのではないか…… と深読みしたくもなってしまう。

長女のマリリンと恋に落ちる客ですが、名前を尋ねるシーンがあります。 つまり、お互いに名前も知らない初対面であったことがわざわざ示されているのです。 場当たり的な恋愛。 さりげない点ですが、この描写の細かさは一体何なのか? 「自殺対策」の粗雑さとのギャップや如何に。 やはり「わかっていて」ワザとやっているのではないか…… と深読みしたくなってしまうところです。

アランの暴力的とすら言える「自殺対策」の後、 店主のミシマが怒るのはむしろ当然と感じます。 ここで店主のミシマまでも簡単に籠絡されてしまうようでは、 いくらなんでも「見どころ」がなさすぎるというものでしょう。 白昼の街を舞台に刀を振り回してアランを追いかけるシーンはアニメの絵的には面白かった。 ちなみにミシマというキャラ名は三島由紀夫から取ったそうです。 日本刀のアクションシーンは制作者の趣味なのかもしれません。

しかし、ミシマの心変わりの顛末である、 「アランが自殺のフリをして、死んでないことに安堵して、怒りを鎮める」 については、どう解釈したものでしょう?

よくある「悲しむ人がいるのだから自殺するな」の一種ということでしょうか。 それに関しても、 じゃあ悲しむ人がいない場合はどうなのか、とか、 人間関係が自殺の原因である場合は、とか、 その人が自殺志願者のその後の面倒を見てくれるのか、とか、 数多のつっこみどころが放置されすぎていて、 これまたあけっ広げなノーガードにツッコむ気が失せてしまうところです。

ミシマが自殺幇助という自分の生業にストレスを感じていたことが事前に描写されていますので、 店をたたむ決心をするためのプロセスとしては妥当な展開と言えばそんな気がしなくもありません。 しかし、汚れ役であることを承知の上で覚悟を決めて営んでいた筈じゃないのか。 その覚悟はどこへ行った。

あるいは、 「自殺者を手伝う商売をしていても、やっぱり自分の身内が死ぬのはイヤなんでしょ」 という意味なのでしょうか。 それに関しては前述の通り、序盤で触れているシーンがあり、 自分たちは自殺者を手伝う家業を営んでいるのだから、 その自分たちが死ぬわけにはいかない、と回答しています。 アランが「死のうとする」場面で、そのことを一言も言わないのはどうしたことなのか。 それ以前に刀で「殺そうと」しちゃってるのだから、すでに正気ではないということか。

登場人物が何も考えていないかのようです。 こんなので本当にいいの? 思想的な矛盾というより、作りが「適当」なのではないかとさえ思えてしまう。

ちなみにミシマ以外のキャラ名も実在の人物から取っているのだとか。 長女のマリリンはマリリン・モンロー。 アランは数学者のアラン・チューリング。 あまり出番がありませんが長男のヴィンセントはヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。 全員、死因が自殺とされている有名人ですね。 ストーリーや登場人物の言動の「いい加減さ」が目についてしまう一方、 こういう凝った設定もあって、制作者が何も考えてなかったとは思えないのですが……。

あるいは、むしろ、当方の想像を絶するほど「軽く」考えていたからこそ、 「自殺」を「ネタ化・キャラ化」してしまったということなのでしょうか。 だとすると、ここにはある種の 「文化の違い」と呼ぶべき何かが潜んでいると考えるべきなのかもしれません。 いや、単に何も考えてないだけ? 依然として消化不良の違和感が残ります。

■ 自殺をヤメさせるのは「商売」の問題なのか?

終盤、店をクレープ屋に改装した後、 「ポイントカードを作ろう」と言い出す場面があります。

つまり、今までは客は死んでしまうので二度と同じ人が来店することはないが、 クレープ屋ならリピーターが来る可能性があるから、ということのようです。 素直な心で見れば、「生=未来」に向けた「前向き」な発言のように聞こえるのですが……。

一般的に、自殺をバッシングする風潮に対して、 「自殺されると資本主義における搾取対象がいなくなって困るからなのではないか」 という疑惑が存在することを思い出してしまいます。 つまり、生きてる人間の方が「金づる」になる、というわけです。 これは安楽死や終末期医療の是非に際しても指摘される問題ですね。 自殺関連の議論に少し首を突っ込んだことがある人なら、 そうした疑惑を一度も耳にしたことがないとは考えにくい。 あるいはフランスではまた少し違うのでしょうか。

この「ポイントカード」発言は、 そうした疑惑を分かった上で敢えて言っている「辛口のジョーク」なのか、 それともやはりこの映画自体が「皮肉」なのか、 はたまた実はやっぱり「何も考えてない」のか。 あるいは「子供向けだから」なのか。

やはり「距離感」が分かりません。

■ ラストの解釈・ミシマは自殺幇助業を続けているのか?

自殺用品店がクレープ屋に変わってしまう、というのがストーリーの大筋ですが、 最後に、以前の客が再訪し、毒薬を渡して帰らせるシーンがあります。

その客は以前首吊りロープを購入したのですが、 そのロープにはアランの「イタズラ」で切り込みが入れられていたため、 体重を支えられずに切れてしまい、自殺が失敗してしまった。 そのため店を再訪したのですが、店はすでにクレープ屋に変わってしまった後。 店の様子に驚きつつ客は「青酸カリ入りのクレープ」を注文。 ミシマは家族にはバレないように店の奥からこっそりと商品を持ってきて客に無償で渡す。 客は店の外でそれを食べて絶命。

これは、表向きはクレープ屋になった後も 自殺志願者へのサービスは続けているということでしょうか? 映画の序盤では自分たちの家業の意義をさんざん語っていたのですから、 表の顔はさておき、思想を貫徹する態度を見せてくれているのは 「筋が通っている」感じはいたします。

しかし、この場面の直後に、前述の「ポイントカード導入」の話が出てくるのですよ。 そもそもこの客は新規の顧客ではない。 つまり、自殺用品店の客は、満足させたら二度と来店しなくなるが、 クレープ屋の場合は満足させれば再来店する可能性がある。 この客は、その対比として登場させられただけなのではないか。

やはり、自殺志願者を相手にするのはビジネスとして儲からないぞ、と、 そういうことを表現して(してしまって?)いるシーンのように見えます。 だから「自殺を推奨しない方がいいぞ」と純粋に言いたいだけなのか、 あるいは底意地の悪いジョークなのか。

このシーンは、再訪した昔の客を追い返しているようにも見えます。 いくら「明るく」振る舞っていても消えることなく存在する「死」の現実を、 まるで汚らわしいものであるかのように「追い返す」。 もうこの街には「死を求める人」の居場所はない、というわけです。

その後、映画は生を無邪気に賛美する歌とともに終幕となるのでした。

■ 現代の「踏み絵」としての「自殺を巡る価値観」

敢えてもう1つだけ、野暮を承知で「ツッコミ」を。 一般に「自殺」と一口に言っても、そこに至る経緯や内実は人によって様々です。 この映画の中では意図的なのかどうなのか、 個々の自殺(志願)者の「事情」が完全に省略されています。 それを単なる「明るく楽しく」という気分だけで一時的に死ぬ気をなくさせたとしても、 問題の対処方法としては表層的に過ぎる、とは言っておきます。

その他、思わずツッコミたくなる箇所や意図を把握しかねる箇所は多々あるのですが、 多々ありすぎるので書くのは諦めます。 ツッコむべきなのか、ジョークなのか、 皮肉なのか、子供向けとして敢えて単純化しているのか…… 前述したとおり「距離感」をつかみかねる。 そんな映画でした。

むしろ、この「よくわからない」中で勢いに任せて「同意」を「迫られる」。 そういう「気持ち悪さ」を感じます。

この「わからなさ」は文化の違いや表現方法の違いから来るものなのかどうか?

全体としては大雑把に「自殺否定・人生賛美」のように見える。 それ以外の「わかりやすい解釈」を見つけるのは難しいと感じる。 しかし何かがおかしい。否定しようのない、この違和感。

ネットで他の人たちの感想を検索してみたところ、 おおむね好意的な言葉が多く見られます。 しかし手放しで大絶賛、というものは私が見た範囲ではなかったように思います。 その一方、言葉を濁しつつ、あまり好きにはなれないという旨の声も散見されます。

おそらくですが、私以外にも少なからぬ人々が、 この違和感を感じているのではないかと想像いたします。 表面的には「自殺否定・人生賛美」という姿をしている。 だから、大っぴらに批判するのは憚られる。 この映画は「いい話」なのか? 答えなんて決まってる。 そう、「決まってる」のです。この違和感!

つまりこれは「踏み絵」です。 それも、底意地の悪さたっぷりに突きつけられる「踏み絵」です。

「自殺なんてイケナイよね? 人生はスバラシイよね?! もちろんキミもそう思うデショ?!」

露骨に不気味に嫌味に、皮肉たっぷりにそう迫ってくる。 君たちの言う "いい話" ってのはこういうのなんだろ? まさか "違う" なんて言わないデショ? ギヒヒ! とでもいうかのようです。 理屈っぽいお説教よりもはるかに「イヤラシイ」と感じます。

本家フランスでの評判や、 製作陣の本音がどこにあるのかは分かりかねるところではありますが、 少なくともここ日本においては、 この映画はそういう「踏み絵」のような存在になってしまうのではないでしょうか。

この映画は「いい話」なのか? いいや違う。この映画を「いい話」だと言わねばならぬという空気圧が存在する。 それが現代の我々が身を置いている「世間」であり、 まさにその「世間」の中で少なからぬ人が「生きにくさ」を感じ、 そして本当に旅立ってしまいさえする。

これは「自殺が良いか? 悪いか?」という単純な話ではありません。 この命題自体への答えは一概に決められるものではないでしょう。 しかし個々人が納得の行く答えを模索する以前に、社会の側からの強力無比な圧力がある。

この映画自体にそうした意図があるのかどうかということではありません。 誰かがそうした意図を持ってこの映画を世間に広めたのかどうかということでもありません。 私たちが身を置いているこの世間において、 「"自殺" に対する価値観」を巡って「踏み絵現象」が起きる。「魔女裁判」が執り行われる。 何か居心地の悪さを感じつつも、決まりきった答えを口にすることしかできない。 この世の私たちを縛る、得体の知れない社会的な作用がある。 この映画がこうして存在すること自体を通し、そのことが浮き彫りになるように思われます。

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