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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        唯物論。世界を理解する1つの仕方としての。
        それはどういう仕方か?
        全てを他人事にする。
        そういう仕方で世界を理解する。
        
        心だとか精神的なものだとかは、ない、ということにしている。
        だから、たとえば、脳をいくら切り刻んでも心が出てこないのは当然のこと。
        
        1つの自己とその他全ての他者、というのも唯物観の一側面か。
        自己だけを全てから切り離している。
        唯物論が描く世界には自己がない。
        同じ意味で、自己に並び立つ存在としての他者もない。心のないロボットが動いているだけ。
        
        
        この世では、世界を理解する方策として、唯物観に行き着きやすくなっているようです。
        あるいは所詮「レベル2」であるにしても。
        行き着く場所がそこになりやすい。
        それはどうしてなのか?
        
        目的は何?
        「世界を理解すること」なの?
        それはあくまでも手段なのではなくて?
        
        唯物観を手に入れて、それで、どうしたかった?
        そして、その願いは達せられた? 達せられそう?
        願い自体を忘れてしまったのではなくて?
        
        
        
        心、というものが、ない、ということになっている。
        でも、ある。
        本当は、ないなんて思ってない。
        唯物観は言うまでもなく完璧ではない。そこからこぼれ落ちるものがある。
        
        心をないということにしたことにも、意味や理由があった?
        
        あるいは、自己と他者、というように、切り分けをしたことで、
        より、明確な輪郭で、心、が、見えるようになった?
        それは副作用? 主作用?
        
        あるいは、本当は、心を知りたいのではなかったか?
        心のために、在りたいのではなかったか?
        心のために、こそ、私は、在りたいのではなかったか?
        
        
        
        
        
        > あるいは所詮「レベル2」であるにしても。
        
        「レベル2」についての説明。
        
        初期状態のままではない。経験を積んで、レベルが上がっている。
        だから「自分はレベルが上がったのだ」と思っている。
        だけど、そのさらに上があることを知らない。
        自己効力感に満たされて、ときに不遜に振舞うこともある。
        そうした状態を批判的に指して、私は「レベル2」という言葉を使っています。