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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        「そこに人間がいる」という認識が必要なんじゃないのか?
        
        言い換えると、今現在、大まかに言って、我々は、そのような種類の認識を持ち合わせているとは言えない。
        
        「心」が認識の枠から放逐されている。
        だから前に進めない。どこへも行けない。
        
        
        誰のことも批判する気になれない。
        どんな批判にも与する気になれない。
        一見、同意できそうな、どんな言説にも、それではダメだ、と思わざるを得ない。
        
        人を「敵」にしてはいけない。
        仲間にしなければいけない。
        
        どうして、こんなにも、うまくいかないのか?
        認識の方法が根本的に、不充分なのではないか?
        我々1人1人が我々1人1人を認識する仕方。
        
        あるいはそうした「うまくいかなさ」も含めて、
        「この世界」に生まれてきたことの意味ということ?
        
        「1つの自己とその他全ての他者」という枠に押し込められて、ここにいることの意味は何?
        
        → 時間が流れるのもその結果の1つか。
           なぜなら、自己と他者が分かれていなければ「時間の流れ」ということは成立しないはずだから。