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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        「一人では生きられない」じゃなくて「一人にさせてもらえない」。
        
        さまざまなニュアンスを匂わせて「人は一人では生きられない」という定型句が今日もどこかで繰り返されておりますが、
        この言葉が表しているのは、決して何かありがたいようなことではなく、
        その実態は、どちらかと言えば「人はなかなか一人にさせてもらない」というべきなのではないかという気がいたします。
        
        たとえば……仮に、世界に自分1人しかいないと想像してみます。
        もちろん、サバイバルは大変でしょうけれど、これは、なかなか気楽なのではないでしょうか?
        誰にも気を遣うことなく、すべてを自分の采配で行うことができる。
        
        たとえば山に入って木の実を探すにしても、
        実際には迂闊にそんなことをすれば「ここはワシの土地だ! 勝手に入るな!」などと怒られてしまいます。
        ですが、世界に自分一人しかいないなら、そんなことを気にする必要はない。
        
        獲物を捕まえたり家を建てたりと言った大掛かりな作業でも、
        誰かと一緒に作業するとなると、自分で勝手に判断して作業を進めるわけにはいきません。
        「ここはあの人に相談して……」「ここは先輩の顔を立てて……」「まずはみんなに周知して……」
        などなど、他の人との間にしがらみが生じます。
        そして出来上がる完成品も、他の人が満足するようにしなければならない。
        自分ではいいと思っていても、関わったほかの人がそうは思わないならば、不和が生じてしまう。
        ですが、自分一人でやるのであれば、あくまでも自分が必要とする要件を満たせばそれでいい。欲張らず、最小限でいい。
        他人がいるから「こうした方がいいかも」「ああした方がいいかも」などと欲が際限なく膨らんでしまう。
        
        昨日は獲物がたくさんとれたし、当面は困ることはないだろう、今日はのんびりしていよう、
        と思っても、周囲に人がいると、ゴロゴロしてないで狩りに行け、などと言われてしまう。
        
        今日はこの靴を履いていこうかな、と思っても、周囲に人がいると、
        これを使え、あれを使え、おまえのために用意してやったんだ、などと押し付けられてしまう。
        「自分でできるからいいです」などと言おうものなら、
        「じゃあ勝手にしろ!」とヘソを曲げて怒られてしまう。
        
        
        
        > 実際には迂闊にそんなことをすれば「ここはワシの土地だ! 勝手に入るな!」などと怒られてしまいます。
        
        たとえばその山の所有者に許可をもらって、山で木の実を採らせてもらうとする。
        所有者さん、ありがとう、というべきところなのでしょう。
        このことをもって「人は一人では生きられない」と言う?
        それはおかしい。何がおかしいか?
        そもそも所有権を主張する人がいなければ、自分で好きなようにやれたのであって、むしろ、その方が楽だった。
        一人で生きたい思ったのだけど、所有権を主張するジジィが出てきて、一人になれなかった。
        なるほど、まさに「人は一人では生きられない」ですね。その通りなのでした。
        全国のどの土地にも必ず所有者がいる。何をするにも必ず誰かに許可を得なければならない。
        
        だから、「人は一人では生きられない」というのを、何か、恩着せがましい、ありがたいことのように言うとしたら、それはおかしい。
        これはこの世のしがらみを表す言葉なのであって、別に何も、ありがたいようなことではない。
        ところが、この言葉は、まるで何かありがたいことであるかのようなニュアンスで言われるのが常です。
        「だから俺を敬え! だから俺の言うことを聞け!」というわけです。
        そして、まさにそのことが、この言葉が指しているものが、どこまでも我々に絡みつく しがらみ である、ということなのでしょう。
        常に周囲にそういう声があふれていて、一人になることができない。
        
        好むと好まざるとに関わらず、周囲には他者がいる。
        「人は一人では生きられない」というのは、その逃れられない現実を、恨みの感情を裏に隠して、言い表した言葉であるように思います。
        
        と、いうようなことを、
        こちらのヤツメウナギのお話を読んで思いました。
        
        せめて私は、人に向かって「人は一人では生きられないんだぞ! よく覚えておけよ!(俺だって我慢してるんだ畜生……)」
        などとお説教するような人間には絶対にならないようにしたいと思います。
        
        
        > 好むと好まざるとに関わらず、周囲には他者がいる。
        
        このこと自体は、この地球上で人間として生きる、ということの内包する一つの事実と言えるでしょう。
        その事実をどのように受け止めるか?
        
        > 「人は一人では生きられない」
        
        これは、いかにも恨みがましい。
        発話者は、何かを「わかっている」として発話している。
        何を「わかっている」のかと言えば、上記の事実を、です。
        同時に発話の対象者に向けて「しかし、おまえはわかっていない。私と違って、わかっていない」と言っている。
        つまり、これは悪口です。
        悪口であることを少しだけ巧妙に隠蔽し、反撃されにくくしている悪口です。
        「事実をわかってない困ったやつに、親切にも教えてやる」という形をとった悪口です。
        誰かに向けて言う場合は悪口であり、自分自身に言い聞かせるように言う場合は自虐です。
        
        
        > その事実をどのように受け止めるか?
        
        事実は単に事実なのであって、
        人を不幸にするためのネタとして利用しなければならない、などと誰かに強制されているわけではない。
        悪口にせよ自虐にせよ、不幸の念を再生産する営みです。
        この事実を、そのような目的に利用しなければならない、というのは、一体誰の教えなのか?
        きっと誰かに教わったのだと思います。あるときは密かに、あるときは公然と、そのように教え込まれて骨身に浸みてしまっているのだと思います。
        しかし、それはこの私自身の望むところなのか?
        そのような教えにクソ真面目に従い、不幸を撒き散らすというのは、この私自身の望むところなのか?
        
        そんなはずはない。
        わざわざ人を不幸にしたいとは思わないし、自分が不幸になりたいとも思わない。
        であるならば、そのような目的のために事実を利用するのは、やめにしたい。
        
        
        > このこと自体は、この地球上で人間として生きる、ということの内包する一つの事実と言えるでしょう。
        
        地上には人がたくさんいて、その中の一人として、生きる。
        
        うん、なるほど。いいじゃないですか。
        ここで思わず、慣れ親しんだ例の定型句が口をついて出そうになるけれど、ぐっとこらえる。
        それは私が考え出した言葉ではない。
        
        どうせ生きるなら、目に映る人々には幸せでいて欲しいし、自分も幸せでいたい。
        私は素朴にそのように思っているはずだ。地上に生まれ落ちた瞬間は誰のことも恨んでいなかったはずだ。
        
        あるいは、この世に恨みを残して死んだ人の怨念が、まだ地上に残っているのかもしれない。
        それもまた地上の一員ということなのでしょうか。
        そうなのでしょう。きっとそうなのでしょう。
        
        全てがよい方向へ向かっていってほしいと思う。