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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        「生かされているんだ!」と思える境地。
        
        なかなか素敵な境地だとは思うのですが、
        調子に乗って、この結論だけを叫ぶと、押し付けがましいふうにしか聞こえない。
        
        この境地が叫ばれると、次は「だから身の回りのものに感謝しましょうね」と続くわけですが、
        感謝だなんて、どの口で要求してるんですか?
        こちとら、勝手にこの世に生まれさせられて、大層迷惑してるんですよ。
        さっさと死にたいのに死ねないし、どうしてくれるんだよ。コンチクショー。
        
        
        話の順番、というものがあると思うのです。
        
        1、私たちは生かされている!
        2、ありがとう!
        
        という順番で言うとしたら、これは、おかしい。伝わらない。
        だって恩着せがましいじゃないですか。
        「お願いですから生かしてください!」なんて言った覚えはない。
        「生きている」という逃れられない事実がある。首根っこをつかまれている。
        「嫌なら死ねよ。どうせ死ねねぇんだろ? ギャハハ!」と嘲笑われている。
        それが偽らざる実感なのであって、そこを出発点にする限り「ありがとう!」という話にはなりようがない。
        
        
        話の順番が違う。
        上で言う「2」の方が先手であるはずです。
        
        つまり、強いて言うならば、こうです。
        
        1、ありがとう!
        2、私たちは生かされている!
        
        ではこの「1」で言っている「ありがとう!」というのは、何に対して言っているお礼なのか?
        そこが、言葉で言い表そうとしたときに、どうしても、抜け落ちてしまう情報なのだと思います。
        
        強引に言うなら、1の前に0がある。
        
        0、なんだか幸せ!
        
        で、幸せすぎてウキウキピョンピョンするものだから、思わず何かに「1、ありがとう!」と言いたくなる。
        目に映るもの全てに見境なく言いたくなる。
        全てが肯定的に見える。
        因果の全てが、よいことのために采配されているように思える。
        直接的には悪いことのように見えることも、結果的には よいことのために配置されているように思える。
        そうした因果の中に自分も配置されている。
        すると「2、生かされている!」という表現が出てくる。
        
        話の順番としては、そういうことだと思います。
        ところが先ほども言いましたように、これを言葉で言い表そうとすると、抜け落ちてしまう情報がある。
        「0、なんだか幸せ!」のところですね。
        これは一体何なのか?
        
        一つ確実に言えるのは、
        この箇所が大前提ということです。
        大前提を共有せずに、その後に来る命題だけを叫んでも、人には伝わらない。
        伝える意味もない。
        
        
        > 「0、なんだか幸せ!」のところですね。
        > これは一体何なのか?
        
        と言っても、何一つ特殊なものでもレアなものでもないはずです。
        フツーのもの、であるはずです。
        
        幸せというのは、観念なのであって、
        具体的なあれやこれやのことではない。
        具体的なあれやこれやのことであるとして語り始めると、それは途端に幸せではなくなる。
        なぜなら、その具体的なあれやこれやがなければ幸せではない、ということだからです。
        
        「○○だから幸せ」なのだとしたら、それは「○○がなければ幸せではない」ということなのであり、
        結局のところ「○○だとしても幸せではない」ということです。
        
        ところが言葉というのは具体的なあれやこれやを言い表すためのものだから、
        言葉で幸せを言い表すことはできない。言葉で言い表そうとすると「○○だから」という言い方になってしまう。
        どうしても言い表すなら、ただ観念として、幸せ、と言うほかない。
        
        それに対して、不幸は具体的なものです。
        理由なく不幸、ということはないのではないでしょうか?
        不幸であるというのは、常に「○○だから不幸」なのであって、その「○○」が取り除かれれば不幸ではなくなる。
        いつだって条件付でしか成立しない。
        
        
        
        だから、どんどん不幸の理由を取り除いて、存分に幸せを満喫すればよさそうなものですが、
        なかなか、そうはならない。
        なぜか?
        この世には人を不幸にせんとする観念が多すぎる。
        そして、こんなことを言うと「おまえだけじゃないんだ! みんな苦労してるんだ!」などと言った声が飛んでくる始末。
        だからこそ、みんなで幸せになりましょう、という単純な話が、できない。
        互いに足を引っ張り合って、不幸にならないと気がすまない。
        こじれて、いる。
        
        どこから手を着ければいい?