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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        ひきこもりは正常なこと
        
        なぜ今の世の中が「こう」なのか?
        「こう」というのは、つまり、人間を疎外するような仕組みになっている、ということです。
        一人で冷静に考えてみればおかしなことだらけであることは明白です。
        しかし、そうした言説が "世間" に受け入れられることはない。
        
        
        > 一人で冷静に考えてみればおかしなことだらけであることは明白です。
        
        それは間違いのないことです。
        しかし、どうしてもそうした考えが多数派になることはない。
        とはいえ、それが明白なことである以上、同じように "気付いて" いる人は多いはずです。
        一人の人間が思う以上に、その数は多いはずです。
        しかしながら、それはなかなか明るみには出ない。
        それは世の中の仕組みが、そうしたことが明るみに出ないように出来ている、ということも理由ですが、
        やはり、数の上で、多数派ではない、という事実もまた、間違いのないことでしょう。
        "気付いて" いる人が思ったより多い、としても、やはり、そうではない人の方が、おそらくは、どうしたって多い。
        
        だから、問題は2つです。
        「世の中の仕組み」と「数」。
        この2つが車の両輪のように、今現在の「現実」を成立させていると言えるでしょう。
        
        
        > やはり、数の上で、多数派ではない、という事実もまた、間違いのないことでしょう。
        
        今の世の中で "普通に" 生活していると、どうしたって、そちら側に傾くようになっている。
        そこから脱して "気付く" のはレアなことであり、
        ましてや、そうした "気付き" を維持したまま生き続けるのは、さらにさらにレアなことでしょう。
        大多数の人は一生に一度も "気付く" ことはなく、たまたま "気付いた" 人の大多数もまた、
        その気付きを維持することなく、一時的な気の迷いであると自分に言い聞かせて、心の奥底に抑え込んでしまう。
        そして今日も地球が回り続ける。
        
        
        > 今の世の中で "普通に" 生活していると、どうしたって、そちら側に傾くようになっている。
        
        一度、世間からハミ出る必要があるのでしょう。
        つまり、ひきこもりです。
        一人になるということです。
        一切の人間関係から遮断されるということです。一切の世間的な価値観から遮断されるということです。
        
        ひきこもりというのは、人間が人間であるための、必然的な帰結の一つと言えるでしょう。
        
        人間であろうとするからこそ、ひきこもる。
        人間であることを手放さないために、ひきこもる。
        人間を疎外することを目的としている今の世の中において、それは自然なことです。
                
        よく "ひきこもり脱出" などと言いますが、
        これは、いわば "世間語" です。
        世間の論理としては、"ひきこもり" という単語の後ろには "脱出" という、直前の単語を否定する単語しか来ることができない。
        そういう文法になっている。
        世間のボキャブラリーとして、そういう言い回しにしか、ならないことになっている。
        つまり、これは文法上の制限なのであって、
        現実を正確に言い表しているわけではないのです。サピアさんとウォーフさんに感謝です。
        
        現実はこうです。
        世間とは、人間が人間であることを否定するためのシステムです。
        その成員は自分が人間であることから目を逸らそうとしている。
        一人一人の人間のそれぞれが、自分が人間であることから目を逸らし続けているための仕組み。
        そのために他人を巻き込み、他人に巻き込んでもらう。
        それが世間の現実です。
        そして、そういうものであるということは、
        世間はそこからハミ出そうとする者の存在を決して許容しないということです。
        自分(たち)が作っている輪の "外側" という存在は、
        自分(たち)が人間であるという現実を、
        自分(たち)に思い出させてしまう。
        それは絶対に許容できない。
        だから、そういうもの(者)は徹底的に攻撃する。攻撃と同時に、自分(たち)の側に取り込もうとする。
        
        
        > よく "ひきこもり脱出" などと言いますが、
        > これは、いわば "世間語" です。
        
        「それは悪いことなのだ!」ということにしておかなければ気が済まない、ということです。
        そしてもちろん「脱出」というのは、自分(たち)の側に取り込むということです。人間を否定する輪に(再び)加えるということです。
        
        
        > ひきこもりというのは、人間が人間であるための、必然的な帰結の一つと言えるでしょう。
        > 
        > 人間であろうとするから、ひきこもる。
        > 人間であることを手放さないために、ひきこもる。
        > 人間を疎外することを目的としている今の世の中において、それは自然なことです。
        
        今ちょっと、「ひきこもり同士の横のつながり」という言葉が思い浮かんだのですが、
        これって語義が矛盾してますよね。
        ひきこもりなのに、横のつながりって、どうなのよ?
        つながっちゃったら、ひきこもりじゃないじゃん!
        
        うん、だから、たとえば「ひきこもり支援」だとか言いますが、
        その支援の内容が、単に「今の世の中に溶け込む」ことを目指しているのだとすると、それは何の意味もない。
        そこで支援されているのは、ひきこもっている本人ではない。
        そこで支援されているのは、むしろ、世間というシステムです。
        そこで支援されているのは、ひきこもりというハミ出し者を目にして、恐れおののいている(世間の側にいる)自分たち、です。

        なぜ恐れおののくかと言えば、自分が人間であるという現実を思い出してしまうからです。
        せっかく忘れようとしていたのに。紫の鏡です。
        
        さて、そうまでして世間というシステムを守り抜いたとして、
        その目的は一体何であったのか?
        
        世間の論理に頼っていれば、人生の目的を考えなくて済む。
        しかし、自分が "一人の人間" になってしまったら、頼れるものが何もない。
        宇宙空間に放り出されて途方に暮れてしまう。
        だから、自分が人間であるという現実から目を逸らして、世間の論理に埋没しようとしていた。
        
        
        > さて、そうまでして世間というシステムを守り抜いたとして、
        > その目的は一体何であったのか?
        
        何を問うべきであるか?
        一人一人の「私」は幸せであろうか?
        その答えは、おそらく当然ながら、No ということになるでしょう。
        なぜなら、世間とは人間を否定する装置だからです。
        一人一人の「私」を不幸にとどめおくことこそが世間の目的だからです。
        "大変なのはアンタだけじゃない" だとか "みんな苦労してるんだ" だとか言って、結局のところ誰も幸せにならない。
        いい加減、その現実に気付きましょう。
        
        
        > いい加減、その現実に気付きましょう。
        
        世間語を語る人々は自分たちこそが現実を語っている、と言い募ってはばかりませんが、
        それがとんだ大嘘であることは、これを読んでいるあなたには説明不要であることでしょう。
        人間を疎外するフィクションこそが世間語です。
        
        
        
        > ひきこもりなのに、横のつながりって、どうなのよ?
        > つながっちゃったら、ひきこもりじゃないじゃん!
        
        以上の観点で、私はひきこもりには積極的な可能性を感じます。
        人間が幸せでいるための可能性です。
        人間の人間による人間のための世の中を作っていくための可能性です。
        
        だから、ひきこもり、が、世間から弾圧されない環境があるといいな、と思う。
        ひきこもりの過程で気付いたことを世間の論理で抑圧することなく、考えとして育んでいけるような環境があるといいな、と思う。
        
        弾圧されないためには、横のつながりがあるといいな、と思う。
        しかしそうしたつながりが "一種の世間" であるような結果は慎重に避けなければ意味がない。