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◆◆ したこと: ◆◆

        マインドルの画像表示確認
        
        学園モノと言えば選択肢。
        
        
        
        選択肢を表示すると、ちょうど立ち絵の顔のあたりに重なってしまうんですけども、
        これは別に問題ないですよね? うん、問題ないよ。ですよね。よかったよかった。迅速なご回答ありがとうございます。
        持つべきものは耳元の生々しい声ですね。いつも大変お世話になっております。
        
        それにしても、こうして実際に画像が入った状態で動かしてみると、なかなかノベルゲームっぽく見えるではありませんか。
        見えますよね? はーい、見えまーす。やはり持つべきものは耳元の生々しい声。本当に頼もしい限り。
        というかこれってノベルゲームなんでしたっけ?
        もともとは対戦型ボードゲームにストーリーモードをつける、という感じの企画だったような。
        なんだかすでに遠い昔のことですので、悠久の歴史の彼方に霞んでしまっております。
        
        とは言え、まだ終わってはおりません。ここまできたからには完成へ向けて前進あるのみ。
        上記SSの4番目の選択肢を選びたくて待ちきれない全国のお友達のためにも、誠心誠意努めて参る所存であります。
        
        
        そんなわけで、前回から少々休憩を挟みつつ、
        とりあえずメインキャラが3人いるうちの1キャラ分のルートの前半まで、画像の表示確認を済ませました。
        最初は作業の段取りで手間取ったりはしましたが、確認だけですので、さっさと済ませて次へ進みたいところ。
        
        確認の途中経過についてですが、たまに画像の指定ミスが見つかって、スクリプトを修正したり、
        いまいちなクオリティの立ち絵が見つかって、今更どうしょうもないかな、と諦めたり、といった感じで順調に進んでおります。
        その他、今のところ特に大きな問題はなく、
        「おっ、なかなかノベルゲームっぽいじゃないか!」と、耳元の声と同意し合っている感じです。
        これというのも今まで頑張ってきたからこそ。私は本当にエライですね。しみじみ。
        
        
        
        
        それにしても、この世は相変わらずですね。
        しまった。なんだか上から目線みたいな言い方だ。
        しかし先日、久々にトリップに行ってきまして、帰ってきて、改めてそのように強く思います。
        一体いつまでこの世はこのようなのか。
        
        存在しなくてもいいはずなのに、わざわざ存在していて、
        それで一体何をするかと言えば、わざわざ人間を不幸にするようなことを、さも意味ありげに続けている。
        一体いつまでこの世はこのようなのか。そんなダジャレをいつまで続けるつもりなのか。
        
        具体的個別的な問題に関して、言いたいことや思うことは多々あります。
        が、具体的個別的なことについては、何も言う気になれません。
        キリがありません。
        
        ではもっと何か根本的なレベルで、何らかの取り組みが可能か?
        個別の問題から距離をおいて、そうした方向を模索する。
        しかしそれもまた非現実的な話です。
        
        この世がこのようなのなぜかと言えば、特定の誰かが悪人だから、というわけではありません。
        もっと全体的な話です。
        ではさて、そうした観点で何かをどうにかしようと思うなら、社会の仕組みから変えなければならなくなり、
        さらには国を別個に作るしかなくなり、行くつくところは、別の時空に新たな宇宙を創造する、という話になってしまう。
        完全に非現実的な話です。
        結局、ドウショウモナイ。
        
        私なりにできることを、というふうなことについて、いくつか具体的な案があったりもします。
        しかし積極的に意味のあることというわけではありません。
        私がそれをしたからといって、何がどうなるというわけではない。
        それに、仮に私のそうした行動が世間の注目を集めて、マネをする人が増えるなどということが起きたとしたら、
        かえって悪いことになるでしょう。
        どうせその活動を名目にして、人に優劣をつけたり、無益な論争や、人を不幸にするようなことを始めるに決まってるんです。
        そしてもともとの私の活動も裏目に出るしかなくなっていく。

        「どうせ……決まってる」という言い方をしました。敢えてそういう言い方をしました。
        そうとしか言いようがないからです。
        
        「どうせオマエラはその程度なんだろ?」とでもいうようなステレオタイプ的な種々のイメージが流布しており、
        同時に、自分から自分をそのような枠に当てはめていく、ということが大流行しています。
        結局「そういうの」が「意味のあること」ということになっているらしいと見える。
        「そんなことないよね」が想像を絶する頻度でハズレとなることはすでにわかっていることです。
        
        というわけで、私が何を言っても、何をしても、ドウニモナラナイものはドウニモナラナイ。
        この世がこのようなこの世である限り、その内側で何をどうしても、ドウニモナラナイ。
        
        どうしても人を不幸にせずにはおかないこの世。
        え? それはおまえの心がけが悪いからですって? なるほど。やはり、どうしても人を不幸にせずにはおかないというわけですね。
        え? タマシイの成長のためであるとかなんとか? なるほど。やはり、どーしても人を不幸にせずにはおかないというわけですね。
        
        せめて私は、可能な限り、人を不幸にするようなことはしないでいられたらと思います。
        せめて私は、苦しんでいる人の気持ちに寄り添っていられたらと思います。
        
        しかし、とどのつまり、これが、これこそが、この世の道理に反することなのでしょう。
        
        多くの人が上記のように思うようになれば、この世はよい世界になっていくのではないか?
        そう思いたいところです。
        しかし、どうやらそれは、楽観的すぎる見方と言わざるを得ないようです。
        
        仮に私が上記のお題目をどこかで繰り返し唱えて、やがて世間に共感が広がり、
        同じようなことを言い出す人が増える、とする。
        ではそれで、この世がよい世界になっていくのか? なっていかない。むしろ悪くなる。
        なぜなら、今度はそうしたお題目を名目として、人間の優劣を語り始めたり、
        無益な論争や、人を不幸にするようなことを始めるに決まってるからです。
        
        あるいは、観念的な理想としてはいいとしても、具体的な次元でのすり合わせで挫折するに決まってます。
        例えば、私の場合であれば、例えばですが「騒音問題」を念頭において、
        「わざわざ音を出すような行為は慎むべき」という発想があります。
        が、世間の少なからぬ人々にとっては、真逆でしょう。
        「音ぐらいのことで神経質になってガタガタいうのは未熟!」と思っている。
        理想的なお題目は、そうした発想を強化するものとして作用するしかない。
        すなわち、「人を不幸にするようなことはしない」は「音ぐらいのことで文句を言わない」になり、
        「苦しんでいる人の気持ちに寄り添う」は「音を出す大義名分(世間の常識)に従う」になる。
        例えば、「灯油巡回販売」は「自分で買いに行けないお年寄りのためなんだから我慢しろ」になる。
        「だからと言って、わざわざ大きな音を垂れ流す必要はないでしょう?」と言うに至り、
        「結局同じことの繰り返し」であると思い知る。
        
        マイナスに対して、プラスの掛け算をすると、マイナスがさらに大きくなる、とでも言えばいいでしょうか。
        結局、この世がこのようであり、どうしょうもない。
        それに対して何をどうしても、やっぱり、どうしょうもない。
        
        希望はどこにもありません。
        
        そもそも存在しなくてもよかったはずの世界が、なぜか存在しており、
        それで一体何をするかと思えば、わざわざ人間を不幸にするようなことをしている。
        
        などと言えば、仮に話がある程度通じたとしても、
        「だったら」というわけで、ではどうするのかと言えば、
        「反社会的」な行動に身を委ねて「利己的」な「欲望」のために暴力的に振る舞うことが「善」だ、
        とでもいうような粗暴な発想を助長することになってしまうでしょう。
        
        希望はどこにもありません。
        
        あるいはもう片方の極としては、
        現に今、苦しい状況に直面している人を踏みつけにして、
        「それはおまえが自分からわざわざ苦しんでいるのだ。おまえの心がけが悪いのだ。自己責任だ」
        などと言った、「ニセ・スピリチュアル」でお馴染みの冷酷な発想に「イエス」と言ったことになってしまうでしょう。
        
        希望はどこにもありません。
        
        「うまい生き方」を見つけて、「いちぬけ」しては、過去の自分と同じような、そうでない人を見下す。
        囚人が看守に「昇格」しただけ。
        そもそもそこに収容所があるのはどういうわけなのか? 何も変わらない。
        
        希望はどこにもありません。
        
        そもそも存在すること自体に何の道理もないこの世で、
        わざわざ人を不幸にするようなことが「この世の道理」で、
        わざわざそれに自分自身を合わせて、自己や他者を不幸にすることが何か世間的に意味あることということになる。
        
        希望はどこにもありません。
        
        
        どうして、誰もが幸せでいられる世界じゃ、ダメなんですか?
        だったら、なんでそんな世界を作っちゃったんですか?
        
        やっぱり神とやらを殴るしかない。このやろ〜。