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◆◆ したこと: ◆◆

        マインドルの画像表示確認
        
        学園モノと言えばCGモード。
        
        
        
        いよいよノベルゲームっぽくなって参りました。
        ん? ノベルゲームっぽくする必要はあるんでしたっけ? しかしそれを言い出すと行き着く先は何も表示しない涅槃アプリ。
        そんな難しいもんでもないし、CG作業が完了した今のタイミングでやっつけてしまいましょう。
        というわけで上記SS含めて全3ルート分を一気にやっつけました。私は本当にエライなぁ。しみじみ。
        CGの枚数自体は全208枚。シーンの件数としては全92件。こんなにあったのか。私は本当にエライなぁ。しみじみ。
        
        それにしても予想以上に面倒くさくてビックリでした。
        当初の見積りでは「CGモードを実装するぞ!」と心の中で念じれば、次の瞬間にはドロンッ! とCGモードが出来上がるハズだったのですけども、
        どういうわけか、いくら念じても何も起きない。
        仕方がないので、一枚ずつチマチマとスクリプトに設定を書き込んでいくという、地味で気の遠くなる作業となってしまいました。
        念じ方に何らかの間違いがあったのでしょうか? 本当に不思議で仕方がありません。
        
        しかし、せっかく天才プログラマーなのですから、何かうまい魔法を考えてみたら?
        うむ。確かにここは血が騒ぐところ。ではさてどうしようか……、
        と、ちまちま手を動かしながら考えていたら、いつの間にか全部終わってました。本当に不思議で仕方がありません。
        
        ちなみに世の中のノベルゲームを製作してらっしゃるみなさんは、どうやってCGモードを作ってらっしゃるのかな?
        あんまり気にしたことありませんでしたが、地味に面倒くさいですよ、これは。今後は涙なしにはCGモードを見ることができませんね。
        それとも案外、名のあるスクリプトエンジンには、うまい具合に一瞬でCGモードを出現させる魔法が備わっていたりするのでしょうか?
        たとえば「CGモードを実装するぞ!」と念じればドロンッ! とCGモードが出現する機能とか。最近の開発環境はよくできてますからね。
        つまり、いずれにせよ、みなさんエライなぁ、ってことです。もちろん私もエライ。しみじみ。
        
        ところで今ふと思ったのですが、
        「お金の力で他人にやらせる」
        というのは、ある意味で「念じてドロン」なのかもしれません。
        「これが現代の魔法ってやつだよ。ギヒヒ」とか言いながら札束をうちわにしてバサバサ扇ぐんでしょ? 大人ってキタナイ!
        
        
        それから、本文を動かしながらの表示確認はキャラ1とキャラ2の分が完了。
 
        

        特に大きな問題はなさそうですが、たまに立ち絵の指定ミスがあるので油断ならない。たとえば夏服のシーンでいきなり冬服が混じってたり。
        結局、実際に一通り表示させて目視しないと確認のしようがないので、なんだかんだと本文を通しで読破するようなことになっております。
        で、久々に読み返してみると、なんなんでしょうね。このストーリー。めちゃめちゃ面白いじゃないですか!
        もう私、このお話を考えた人のファンにならざるを得ません。ファンレターの宛先はドコかな? ドキドキ。
        スクリプトの作業のときにも同じこと言ってたような気がしますけど、画像が入った状態で動かしながら見ると感慨もひとしお。
        というか、当たり前のようにスルスル動いてしまうので、
        ふ〜ん、こんなノベルゲームがあったのか〜、このネタ、私の案をパクってるじゃん、このやろ〜、などと、まるで他人事のように実感がありません。

        さて、まだキャラ3ルートの確認作業が残っております。楽しみですよ。わくわく。
        この素晴らしいお話を、一日も早く、あなたのお手元に届けたい。
        
        
        
        ところで、これからどうしようかな。
        もちろん、さしあたりは今やっているこの作業を完遂させるわけですけども、その後。
        考えていることはいろいろとあります。
        たとえば自殺とか、あるいは自殺とか、そこまではいかないにしても、せめて中間をとって自殺とか。または逆をついて自殺とか。
        選択肢は無数にあって目移りするところではありますが、そんな中で一つ考えているのは、
        
        「戦わないゲーム」
        
        です。
        
        今後作るとしたら、そういうものを作っていきたい。
        世の中に「ゲーム」と名のつくものは数限りなく存在しておりますが、
        ほぼ例外なく、何らかの形で
        
        「戦うゲーム」
        
        ばかりです。

        今作業中のものもノベルゲームふうストーリーモードつきの「対戦型ボードゲーム」ですから、「戦うゲーム」です。
        このようなものはこれで最後にしたい。いや、これはこれで別にいいのですけど、
        ただちょっと、「ゲーム」と言えば「戦うゲーム」ばかり、という現状に、少しぐらいはノーと言いたい。

        「戦うゲーム」という表現自体が同語反復なところがあって、むしろ「ゲーム」と言えば「戦い」です。
        何らかの「戦い」をコンピューター上に実現することが「ゲームを作った」ことになる。
        単にキャラクターを表示するだけでは「つまらない」のであり、じゃあどうすれば「おもしろい」のかと言えば、
        キャラクターを操作して何かと「戦う」ようにすることで「ゲームらしくなった」ということになる。
        むしろ「ゲーム」という言葉が「戦い」の別名になっていると言っても過言ではない。
        
        ちなみにノベルゲーム自体はゲームと名のつく何か別のものという感じなので、これを含めると話がヤヤコシクなってしまいますが、
        別に何か包括的なゲーム論を構築するのが目的というわけではなくて、
        ここで問題にしたいのはアクションとか、RPGとか、はたまたボードゲームとか、
        ストーリー以外の部分で、プレイヤーが操作をして、何らかの目標に向けて頑張る的な、そういう要素についてです。
        
        で、その「何らかの目標に向けて頑張る」と言うのが、結局、何なのかと言えば、戦い、つまり、
        
        「他者をやっつけて、自己の利益を上げる」
        
        ということになります。
        
        その世界に、自分以外に登場する存在は、2種類しかありません。
        
        ・敵(倒すべきもの/邪魔なもの)
        ・利用できるもの
        
        そういう世界の中で、手段を選ばず、利用できるものは何でも利用し、他者をおしのけて、自己の利益の最大化を目指す。
        
        アクションであろうが、パズルであろうが、RPG的なものであろうが、
        およそ「ゲーム」と名のつくものは、ほぼ例外なく、そういう内容です。
        (ちなみに「手段を選ばず」という部分に自分なりに制限をかけるのは「縛りプレイ」という特殊な遊び方、ということになる)
        
        一応、「正義の味方」ということになっていたり、「仲間と協力」という要素があったりもしますが、
        やっていることは「いかに勝つか」であり、結局同じです。
        
        > そういう世界の中で、手段を選ばず、利用できるものは何でも利用し、他者をおしのけて、自己の利益の最大化を目指す。
        
        サイコパスですね。
        
        もちろん「ゲームなんだからいい」ということになります。
        「おまえこそ現実とゲームを混同してるんじゃねーの?」ということになります。
        それは確かにその通りです。反論の余地は1ミリもありません。
        
        ただ、なんか、「こういうの」(ばかり)が「楽しい・面白い」という「ことになっている」というのが、
        なんか、奇妙だと思いませんか? 私は思います。
        
        あくまでもゲームなのであって、現実とは無関係。
        そもそも遊びなのであって、やってもやらなくてもいい。
        
        そういうものを敢えて作り出す。
        そういうものを敢えてプレイする。
       
        で、だったら、具体的に一体何を、わざわざ、作り出して、わざわざ、やっているのかと言えば、
        サイコパスごっこをしている。
        「そういうの」が「楽しい・面白い」という「ことになっている」わけです。
        
        「そういうの」が「娯楽」として提供され、「娯楽」として受け取り、
        例えば「これで私はストレスが解消できた」などと判断を下す。
        
        なんか、奇妙だと思いませんか? 私は思います。
        だって、サイコパスごっこの一体何がそんなに楽しいのさ?
        もちろん、人の感性はそれぞれですから、そういうのを楽しいと感じる感性を否定するつもりはないのですけども、
        もうちょっと疑問を感じてもいいのではないかな、とは思います。
        
        たとえば仮にですが、世の中のゲームがエロゲーばかりだったとしたら、
        「ゲームだからって、必ずエロ要素がないとダメってことはないんじゃね?」と思いますよね。思いましょう。
        別にエロを否定するわけではないけれど、そうじゃないものがもっとあってもいいんじゃないのかって話です。
        
        そして仮にではなく、実際、サイコパスゲーばかりの世の中で、
        「ゲームだからって、必ずサイコパス要素がないとダメってことはないんじゃね?」って思いませんか。思いますよね。思いましょう。
        別にサイコパスを否定するわけではないけれど、そうじゃないものがもっとあってもいいんじゃないのかって話です。
        
        「たかがゲームなんだから別に問題ない」というのは完全にその通りですが、
        それ以前に、本当にそんなものを「楽しい・面白い」と思っているのか? という点は、疑問に付してもいいような気がいたします。
        
        格闘ゲーム → 人を殴るなんてイヤですよ……。
        RPG → 「敵」を倒して上がるレベルって一体何のレベルなの?
        将棋 → 相手が王将を取りたがってるなら取らせてあげましょうよ!
        
        などと書くと、まるで冗談のようではありますが、
        要は人間としての「ヨロコビ」というものが、本当のところ、どこにあるのか? ってことです。
        
        で、何が「本当」で、それが「どこ」なのかはわかりませんが、
        かと言って、
        「どうせオマエラは何だかんだ言って内心では "そういう" 欲望を持ってるんだろ?」
        という悪魔の声に「はいはい、その通りでございますよ〜」と無力にクソマジメに従い続けなきゃならないってことはないとは思うわけです。
        
        便利になった携帯デバイスで、歩きながら、あるいはバスを待ちながら、
        寸暇を惜しんで何をしているかと言えば、そういう「悪魔の声」に「イエス」と言い続ける儀式に勤しんでいる、
        というのでは、なんだか、あまりにも「思うツボ」で「クソマジメ」すぎる気がいたします。
        あんまりオカルト的な言い方はしたくはありませんが、しかし、
        これでは、いい加減ちょっと、人類全体のカルマがたまる一方なんじゃねーの、という気はいたします。
        で、「ぁんだよ? たかがゲームだろ? おめーこそ現実とゲームの区別つけろやこの偽善者が!」とか言うんでしょ? ほらね、「思うツボ」だ!
        
        とは言え、単に上記のようにシステムのプラス/マイナスを逆転させるだけでは、結局は同じになってしまうでしょう。
        何かもっと根本的に違う別物が必要となるような、あるいは案外ちょっとしたヒネリで済むことなのか。
        具体的にどうすればいいのかは、今のところは見えておりません。
        結局、何も表示しない涅槃アプリを起動させて静かに瞑想しましょう、ってことになってしまうのかな。
        
        ゲームは「する」ことです。瞑想は「しない」ことです。
        さらに言えば生きるとは「する」ことです。
        一番いいのは一切の「する」ことを止めることです。つまり自殺。
        そうはせずに、あくでもこの世に生きて「する」ことを続けるのだと言うのならば、
        その「する」ことを通して、それでも悪魔の手に堕ちない何かを。